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火葬場で本を読む人 『本の読める場所を求めて』全文公開(26)

第5章 読書という不気味な行為
㉖火葬場で本を読む人

家以外の場でおこなわれるパソコン作業も読書も、ともに、パブリックなスペースを自分の居場所化する行為だ。連れ立っておしゃべりをしている人たちと比べると、ずっと外に開かれていない、内に閉じられている、という感じがある。そして、パソコンよりも読書のほうがその閉じられ度合いがずっと深刻なのではないか。

ふたつの特性が、読書という行為に不気味さをまとわせているように思われる。排他性と非生産性だ。

パソコンでの作業は一見すると「パソコンと自分だけ」というクローズドなものにも思えるが、「作成した企画書を誰かに送信する」というような、その向こう側の生きた他者と何かを共有している状態を想像しやすい。これは、実際にはそうではなかったとしても変わらなくて、「作業者とパソコンのあいだだけで完結してはいないかもしれない」という可能性を感じられるだけで有効だ。排他の手前にとどまっている。

それに、周囲を遮断しているように見えて、その実、話しかけたら応答してくれそう、という感じもある。これも「そのパソコンの中にはきっとメッセージングアプリも入っているはずだ、なんなら起動もされていて今現在誰かとやり取りを交わしているかもしれない」という憶測が成り立つことがもたらす感覚かもしれない。あるいは画面と目の距離の問題か。それはけっこう離れている。お邪魔する余地がありそうだ。つまり、パソコン作業者はコミュニケーションへの回路がまだ開かれているように見える。完全に閉じられてはいない。

それに対して本というプロダクトにはLINEアプリもツイートボタンも内蔵されておらず、本を開いているその時間において、その人は本以外のものとかかわっていない。そもそも他者との共有や周囲とのコミュニケーション以前に、本を読んでいる人がいるのは、今こことは別の、断絶された、異なるレイヤーの世界であり、たとえ実態はページの上を目が滑り続けてずっと今日の夕食のことを考えていたとしても、周りからはわからない。別世界に深く沈潜しているように見える。とても今現在の世界とは接続されていなそうで、周囲の人にとって、本を読む人は自分たちをまったく無視した排他的な態度をとっているように感じられる。自分たちの存在を意に介さず、ないものとして扱っているように感じられる。話しかけでもしたときには露骨にため息をつかれそうな気配がある。「離脱」というやつだ(たぶん)。これは、とても不穏当で不愉快な存在だ。

祖母の葬儀のときに火葬場の控室で本を読んでいたところ、あとで親戚の一人に「あれはないと思うよ」と言われたことがあった。僕の知る限りその親戚もスマホを見ていたはずだったが、本とスマホとでは違うらしいし、その違う感じをわからないと言えばそれは強弁となるよな、という感覚が僕の中にもある。実際、本を開いているとき、「話しかけないで」とたしかに思っている



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