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敬意を払い合う 『本の読める場所を求めて』全文公開(43)

第8章 おひとりさまが主役になる
㊸ 敬意を払い合う

敬意。同じ欲望に基礎づけられた敬意。野球場であれ映画館であれコンサートホールであれ、複数の人が場を同じくするに際して大切なのは、とにかく敬意だ。敬意とは、「僕はこの時間を楽しみに来ている。あなたもどうやら同じようだ。それならば、みんなが楽しいのが一番いい」という気持ちを伴った行動だ。敬意の欠落を目の当たりにするのは、寂しいし白ける。映画館でスマホを見る人、コンサートホールで話し続ける人、野球場で……野球場はなんだろうな。野球場はもう少しおおらかな場所かもしれない。でもサッカーの動画を見ている人がいたらさすがに寒いかな。
他者に敬意を払うのは礼儀として要請されるからだけではなく、そこに積極的な効用があるからでもある。他者に親切にできたときと同じように、他者に敬意を払えたとき、僕らの脳内では幸福感を司る「報酬系」が刺激されているはずだ。他者への敬意は折り畳まれて他者へ敬意を払えた自分への敬意にもなるし、他者から自分への敬意を感じたら自分も他者に敬意を払いたくなる。他者への敬意の欠如と自己への敬意の欠如が両輪だったように、その対極で、敬意は敬意を呼び敬意を増幅させる。
「本の読める店」がやっているのも、突き詰めてしまえば、読書をしに来た人たち同士が互いに敬意を払いやすいような環境を用意すること、それに尽きる。
それと同時に、敬意の欠落があったとしてもできるかぎりそれを不可視化すること。映画館のスマホ者がそうであるように、居合わせた人の過ごす時間の心地よさになんて1ミリも興味がありません、という態度を見ずに済むこと。仕事を、勉強を、会話をしたかった人の中にも、周囲に対してたしかに敬意を払える人はもちろんいる。でも、払えない人もはっきりといる。絶対に現れる。「傍らに人なんて、いましたっけ?」という人はどうしたって現れてしまう。そして敬意の欠落は荒々しい動きや音として可視化されてしまう。たとえごくたまにであったとしても、豊かな時間を過ごしに来てくれた親愛なる人たちにババを引くリスクを背負わせてはいけない。だからこそ、タイピングが、会話が禁じられている。極論を言えば、「本の読める店」が決まりごとを必要としたのは、「静かでなければいけないから」ではなく、「敬意の欠落が周囲に伝わることを防がなければいけないから」だったのかもしれない。
もちろん本を読みに来た人たちの中にだって、周囲に対する敬意や関心なんてひとつもない人はいるだろう。ただ、幸いにして読書というのは、再三述べているように極端にスタティックな行為だ。祈りの姿勢と大差のない、静かな、動きのない行為だ。だからそこに敬意の欠落があったとしても極めて見えにくい。可視化されない。黙々と本を読みながら敬意の欠落を周囲に撒き散らすということは、なかなか至難の業だ。

しかし敬意を払うとは、ややもすれば気疲れするものでもある。気を遣うことと紙一重だ。自分の中の何かを差し出すことでもあるだろう。それは犠牲や負担を伴うこともあるかもしれない。公共圏の中で、人は、私的な振る舞いと制度下での振る舞いとのバランスをとるよう求められる。映画館で面白い場面があったとき、同伴者に話しかけたくなっても(私的な振る舞い)、他の人に迷惑だから自制する(制度下での振る舞い)。自制は立派なことだが、これは「したいこと」と「してもいいこと」のあいだに乖離が生じた場面だ。これが重なれば負担になる。疲れる。
「本の読める店」の場合はどうだろうか。フヅクエに来るのは、ゆっくり本を読みたい人たちだ。この人たちがしたいのは、おしゃべりをすることでも、仕事をすることでもなく、ただゆっくり本を読むことだ。パソコンのルールも会話のルールも、彼らを縛るものではなく、その脅威から守るものとしてある(だからフヅクエはルールが多いと言われることが多いが、ゆっくり本を読みたい人たちにとって、何かを禁じられたと感じるものではないはずだ)。ここにおいて、「したいこと」と「してもいいこと」のあいだに乖離は生まれない。本来やりたかった、思うがままに本を読むということは、どんな制限もなくおこなわれる。それがそのまま、周囲の同じく読書をする人たちに敬意を表する行為にもなる。利己の行動が利他の行動にそっくりそのままひっくり返るとき、いかなる犠牲も払うことなく、場は自然と、敬意に満ちたものになるだろう。

多大なポイントを獲得する

最後に整理するため、第4章で登場した「ポイントシステム」を久しぶりに持ち出す。おさらいをすると、初期設定はこの通りだ。

店の人=20ポイント
常連・店の人と顔見知り=10ポイント
一見さん=2ポイント

おひとりさまの一見さんは従来2ポイントの存在でしかなく、大きなポイントを獲得して安心して過ごせるようになるためには、店の人や他の客と仲良くなるであるとか、何度も通って常連になる必要があった。談話や場数を経ない結託はなかった。「本の読める店」においては、どうなったか。
まず案内書きを読むことによって店での過ごし方を知悉し(常連さん化で10ポイントに変身)、同時に、テキストを通して、この店はあなたのような人にこそ来てもらいたかったのだという全幅の歓迎が伝えられる(「店の人」の20ポイントを獲得)。この時点で30ポイントにもなり、店の扉を開けたときにこわばっていた身体はすでにやわらかな、リラックスしたものとなっているだろう。この状態に至れば何時間でも安心して過ごせるはずだ。
そこにさらに、場をともにする、欲望を共有する人たちの存在がある。それぞれの時間をいいものにしようという合意が無言のうちに交わされているのを感じる。結託だ。共謀だ。全員が常連さん化を果たしている存在だから、仮に他に9人いたら、90ものポイントが付与され、120ポイントにもなる。120ポイント! 嵐のような激しいグルーヴに巻き込まれる! これでもう、無敵の存在だ。

本を読む場において従来はリスク因子でしかなかった他者の存在は、「本の読める店」においては勇気づけ合う存在となり、むしろ、その数は多ければ多いほどいい。欲望の足並みが揃った人が同じようにそこにいることの安心感。みんなが味方だと思えるときの、果てしない心強さ。

ふたりで寝れば暖かいが
ひとりでどうして暖まれようか

「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い」。そう、その報いは、良い。読書というひとりぼっちでおこなうフラジャイルな行為を肯定し合い、敬意を払い合うこと。ともにある時間を生きること。


「大丈夫だ」と僕は言って、ソーダの缶の蓋を開けてテーブルの上に置き、研修生の顔とシャツを拭いた。「「峠は越えた。僕はあなたとともにある」」と僕はホイットマンを引用した。「「そして事の次第を知っている」」。彼は泣きだした。おそらくこの二十二歳の若者は、故郷を遠く離れて今この場所にいるのだろう。その光景は、端から見ればどう考えても間抜けだ。しかし彼の恐怖、そして僕の共感は本物だった。
         ベン・ラーナー『10:04』(木原善彦訳、白水社)p.213





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