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非生産性にたじろがない人/圧倒的成長を志す人 『本の読める場所を求めて』全文公開(28)

4章 長居するおひとりさまとしての本を読む客
㉘非生産
性にたじろがない人/圧倒的成長を志す人

今、僕は、とても生産的なことをしている(「凄惨敵」とまず変換されてぎょっとした。どういうことなんだろう……)。パソコンを前にして、文章を書いている。言葉をひとつずつ、文字通り、生産している。最後までしっかりがんばることができたら、本になるはずだ。本になれば、印税も発生する。がんばり通すことができたら、その経験は僕に自信を与えるだろう。成長─それも圧倒的な。
そう、未来へ─。

このように、パソコンを前に何かに勤しむ人は、今の僕と同じように極めて生産的な状態である可能性が多々ある(もちろんそうじゃない可能性も多々ある)。それに対して読書というものは、第2章でも述べた通り、喜びのためにされるものであり、そこで目指されるものは、今、その場においてのみの、享受だ。面白そうだから読む。知りたいから読む。行為があるだけ。プロセスがあるだけ。それが読書で、それは何も生産しない。
ここに読書の不気味さは宿るように思う。まったく非生産の行為に人間が従事し続けるその光景は、生産性で価値の有無を測ることに慣れきったこの社会において、極めて不可解で、それゆえに不快なものなのではないか。
業務時間中のオフィスでも想像してみてほしい。人々はパソコンや書類や電話に向かって、働いている。何かに、働きかけている。打ち合わせをしている小集団がいる。印刷した資料をどこかへ持っていく人がいる。人々はそれぞれに何かしら生産をしている。その渦中で─想像してみてほしい─一人、姿勢よく椅子に腰掛けたまま、身動きもせず、しゃべることもせず、まっすぐに前を見て、穏やかで満ち足りた顔をしている人間。そんな人間がいたら、「どうして?」と思わないわけにはいかない。なぜその状況に耐えられてしまうのか、生産側の人間には想像がつかない。仕事がいくらだるいと言っても、毎日のように「会社やめたい」と思っても、こんなふうにしたいというわけではない。代わりの生産行為を探すはずだ。しかしこの人は、まるで仏様のような表情で、非生産の時間を甘受している。周囲の人間の胸がざわついたとしてもまったく不思議ではない。
本を読んでいる人も、こう見えているのではないか、ということだ。
あるいはこれは、「読書とは何かを学ぶための行為ではなく、ただ喜びのためにされる営みだ」という、強弁に近い持論ゆえの見誤りであり、むしろ正反対かもしれない。つまり、読書は非生産的な行為と見られて気味悪がられるのではなく、過剰に生産的な行為とみなされるがゆえに忌避される、という説。読書という行為を「新しい知識や情報を得る」ためのものと多くの人が捉えていることは前に見た通りだ。ということは、公の場で読書をしている人は、黙々と、高い志と目的意識を持って、圧倒的に成長しようとしている人に見えるのかもしれない。
「まったりツムツムしよ」
「溜まった鬱憤を吐き散らそ」
そんな時間を過ごそうとしている横で、本を読んで、成長のための具体的行動を起こしている者がいる。
「ああそうだ……資格試験のための勉強……しないといけないんだった……」
そんなふうに、せっかくの穏やかな時間が台無しにされたような気分になるのかもしれない。

そういうわけで、読書という営みは排他的で非生産的(あるいは過剰に生産的)な行為と言える。いずれにしても極端なそんな行為に公衆の面前で没頭する存在は、不可解で不穏当で不快で不気味なものに映るという説は、かなり暴論めいてはいるが、完全な見当違いではないのではないか。
社会の価値基準を撹乱し転覆させようする、秩序の紊乱(びんらん)だとの誹(そし)りは免れ得ない、ラディカルで危険で暴力的な行為、それが読書。
「そんな行為のために場所を与えるなどもってのほかだ。いや、駆逐しろ。あんなことをさせていてはいけない。あんな存在を許してはならない」
人々がそう潜在的に思っているからこそ、読書をめぐる状況がこのようなものになっていると考えたら納得もいく。私たちは社会から敵視されている!


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