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死に際のあなたへ


見舞いの花を買って病院へ向かった。
確かに花なんて僕も父も柄じゃなかったが、食べ物はとうの昔に果物でさえ喉を通らなくなってしまった。
花なら腐らないし、少しは病室を明るくしてくれるだろう。
病室の扉を静かに開け、ベッド横の小さな丸椅子に腰掛けている母の背中に声をかけようとしてやめた。
白い病室で旦那の手を握りながら、彼女はとつとつと語りかけていた。


「いつ命を手放すかだって、あなたが選んでいいのよ。
病気になると周りのことばかり考えるでしょう。
でもそれはいいの。私たちが好きでやっていることだから。
あなたはあなたの権利として、いつ死ぬかを決めることができるのよ」

痩せて骨張った父の手をさすりながら語る母の背中は、いつになくしゃんと伸びている。

「あなたが生きたいと望むなら、この先の苦しいことも一緒に立ち向かう。
でももう苦しいきついと思っているなら、私たちのことを気に病むことはないわ。
だってこれはあなたの人生だから。

私はあなたの人生にそっと寄り添っている細い糸でしかないの。
絡み合わず、もつれず、ただ限りなく隣でまっすぐのびていく糸。
それで満足。それで充分。
あなたのことも、あなたの人生も、愛してる」


父はもうずっと目を覚ましていなかった。
頑固者で、口数の多くはなかった父。
幼い頃、僕にはそんな父に母はただ付き従っているように見えた。
だけど、きっと、父の不器用さや情の深さを知っていたから、母はいつもにこやかに茶をついでいたのだろう。
母は僕が思うよりずっとずっと深く、父を愛していたのだ。
その死さえ、毅然と送り出せるほどに。

僕は病室を後にした。
外のベンチに腰掛けてみたが視点が定まらなくて目を閉じた。
2人の出会いからこれまでのことを考えてみようとして、何も知らないことに気がついた。
2人しか知らない、2人だけの世界。
きっとこの先どうなってもハッピーエンドなんだろう。

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