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生活に際し

チョコレートばかり食べています。

日々、みことばを心にたくわえて、神様と共にあり、充足しつつあります。ありがたいことです。

つらら

おじいちゃんに、”うつくしい小説を書いていきたい”と言ってからというもの、テレビに作家業の人が映るたびに私を呼び、
「いのり見れ、作家。」
と言ってきます。
 だからなにがあるというわけではなく、ただ作家が映っているのを見せたいらしいです。

ひかり

小説を書くことや、絵を描くことが能動的な選択となった途端、これ以上ないのではというほど楽しくて、仕方がありません。
消去法で創作を選んだ時、それらは苦しみの昇華にあたる作業でしかありませんでした。

うつくしい小説を書きたい。
うつくしい絵を描きたい。

仲直りの酒盛り


おじいちゃんが、南無妙法蓮華経について私に話をしました。
「南無妙法蓮華経の”蓮華”っちゅうのは、人間界ていう汚い泥の中から、スッと生える蓮華の花のこと」
と言います。

私はクリスチャンです。
ちがう神を信じる人に対する態度として、折り合いの付け方をいまだに模索しています。
私は主を恐れていますから、おじいちゃんの話を聞くことが、神に背くことになるのではという恐れもあります。

しかしおじいちゃんという個人を尊重するならば、彼が信じるものの話を、私の聞ける範囲で聞こう、と思いました。

私の信じるもの、私が愛する神に、心の中で
「支えてください」
と唱えながら筆談に臨みました。

実際のスクリーンショット

話の中で、私がiPadに文字を打ち込んで見せるとおじいちゃんは、
「うん。うつくしい蓮華の花になりたかった」
と言いました。

「でももうなれねんだ。人の手がなければ生きていかれない。魚一つ食べるのにだって、じいちゃんは買ったものを食べてるだけ。人に与えられる立場なの」
とも言いました。

おじいちゃんの自己に対する認識が垣間見えた気がしました。
私が家に身を置かせてもらっている時点で、おじいちゃんは”与える立場”です。
それ以前に、100年を生きてきた上で、おじいちゃんは有り余るほど”与えてきた”のでしょうから、そのことは蓮華でなくとも美しいのです。

トルストイは「惜しみなく愛は与う」と言いました。
有島武郎は「惜しみなく愛は奪う」と書きました。
これについて私は、しばらく考えていますし、これからも考え続けることでしょう。


世界の側に信頼を置くことは、恐怖に対立する大きな手立てではありませんか。
希望的観測とも言えますが、今起きていないことに対して恐れをなして足がすくむくらいならば、希望を糧に、光をしるべに、滅びてもいいのではありませんか。
 これは安易な厭世主義ではなく、神のもとにあって血肉の毛皮を脱ぐというだけのことです。

人には原罪がありますし、過ちを繰り返しますが、私はその度に悔い改め、神に対し、他者に対し、小説に対し、できうる限り誠実でありたいです。


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