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まるまるとした夏/小樽滞在記

小樽に滞在する予定ができたので、日記をつけてみようと思います。
関係のない話をしているだけな気もします。


 2024/08/17
 函館から小樽まで、約5時間の下道を車が走る。
 座標の移動がすさまじい。


 移動には音楽があればうれしい。どこへ向かうときにもノイズキャンセリングのイヤホンをして音楽を流し、ひたすらに車窓のむこうを眺めている。
 考えがなめらかに流れていく。この時間がなによりすきだ。
 旅のおいしいところは、数多の人の、膨大な生活が、一瞬で過ぎ去り、訪れ、去っていくところにあると思う。たのしい。

 わたしはクリスチャンなのでお盆に関わりはないけれども、これに伴う「帰省」という言葉がなんだかすきだ。蜜蜂が巣に帰っていくみたいだから。
 そういえばこの間、限りなく球体に近い蜜蜂を見た。それはまるまると太っていてかわいかった。
 丸い蜂は怖くなかった。

 帰省して久しぶりにおじいちゃんの顔を見る。一時期、おじいちゃんの家で過ごした時間は魂のやわらかい部分になっている。これは容易につつける場所にあってはならないから、見えない宝石箱に大切にしまっておく。

 連れて行ったうさぎを見たおじいちゃんが
「太ったなあ」
 と笑う。それくらいの年代の人が言う「太った」は褒め言葉なのだとなにかで読んだ。
 戦争を生きた人には、まず人間が食うに満足し、さらにペットに餌をやれるだけの余裕は裕福なのだという。

それはそうと、太い

 おじいちゃんが建てた(らしい)家は、いつだって重厚な時間の匂いが立ち込めている。廊下をダンゴムシが往来する。昭和の磨りガラスがひかっている。埃を被ったNintendo64がある。
 「最強 羽生将棋」がささっている。

 2024/08/18
 教会へ行く。良い教会だった、小さな会堂のなかの信徒はみな和やかだった。

 くまうすへ海を見に行った。碁石のような石を拾った。すばらしい収穫に満足。
 人が泳ぎ、飲み食い、喋り、楽しむ浜辺をうつむいて歩いているとき、驚くべき速度で自意識が外縁に滲んでゆく。波音と人間のざわめきとで、それは加速してゆく。
 家にいては味わえない感覚だから、外へ出てよかった。

 眠気というものが消失していたのに、最近は睡眠薬を飲まずとも肉体疲労から眠気を催すようになった。これもまたすばらしいことだ。
 眠りという区切りは思うより大切だ。祝宴を続けていくためにも一定間隔で行われる意識の断絶を大切にしなくてはいけない。

 わたしは夏という季節に棘を見いだしているところがあるから、これがもっと丸くてつやつやとした球体だったなら、冬の終わりも怖くないのかもしれないと思う。
 そのために夏を太らせる必要がある。
 まるまるとした夏。

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