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言葉が滑って通りゆく/小樽滞在記

2024/08/19
草刈りをする。空色の翅の綺麗な蝶々がいた。
なぜか川沿いでズッキーニが栽培されていた。

恐ろしきニワウルシ


ダリア

 本を持ってきた。
 旅行に関係のない荷物が多い。
 旅行に限らず、この傾向が強い気がする。弾かれてではなく、たのしくて周縁を好んでいる。
 蜜のある花を見つけたら一日中、文字のとおり道草を食っていた。そんなふうにふらふらとすることをどこかで決め込んでいる。もっと軽やかでいたいと思う。

 一人だけ荷物がやたらに重くて苦い思いをすることもあるけれど、誰にも知られず魂の外側を持ち歩いているようでうれしかったりする。

 小さいころ、兄弟喧嘩をしたとき決まってわたしが兄を口で言い負かそうとするのを見かねた母に
「あなたは言葉の人。けれども言葉は盾にも槍にもなるからね」
と言われたことがある。

 「言葉にしてしまうこと」について考える。
 立て続けに「言語化が上手」「捉える力がある」「上手く言えないことを言葉にしてくれる」と人に言われることがあった。うれしい。
 うれしいけれども「言葉にしてしまうこと」はいささか暴力的だ、と思う。
 わたしは暴力を実行しつづけている。

 わたしたちは名前を与えられた各個である。名前は短い詩だ、というのをわたしは好んでいるけれど、詩にする、言葉にするという行為は、液体から意図的に結晶を産出することに他ならない。無限のたゆたいを、有限に定めてしまうことだと思う。そこにはたちまち質量が現れる。

 良し悪しではない。これに助かる人もいる。けれどこれに打ちのめされる人もいる。
 わたしは小説を書いているといつも、融解したまま液状でありたい人をバラバラにしているかもしれない、と思う。わたしが砕いた魂はどこにむかうのだろう。
 揺らいだままでいたほうが美しかったことに、結晶を取り上げてから気がついたりする。
 大袈裟かもしれない。けれど大袈裟すぎるくらいを想定していなければ、わたしはわたしの言葉に対して背筋を伸ばしていられない。

 本を読んでいると文字が滑ることがある。上澄だけが残って、その言葉の意味したいところを掴み損ねる。よく読めない。
 目が滑る、と表現するのが正しいのだけれど、感覚的には文字のほうが動いていなくなるのだ、文字は自由だ。
 文字がわたしを通り過ぎてわたしだけが滑落しゆく。

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