『関心領域』はアトラクションなのか
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観た時の衝撃を思い出した。
これはまさに体験というか体感する映画だった。序盤からもう既にスクリーンの中に入ることを強制されているかのように感じた。
映像そのものだけを追うとひたすら平和で整った生活に美しい庭、明らかに中流以上の恵まれた家族の姿が描かれてるのだが、音が不穏なのである。
その音とは塀の向こうにある強制収容所の作業音や発砲音や、ともしたら阿鼻叫喚かもしれない声だ。
他愛もない会話や暮らしがその中で延々と映し出されて行く。あまりにも退屈。観るのをやめたくなるほど退屈。なのに音のせいでここから抜け出してはいけないような感覚に陥る。
今では視覚障害者や聴覚障害者も映画を楽しむことが出来るけれど、申し訳ないが彼らにはこの作品を心底味わうことは難しいのではないか、と思った。視覚の情報と聴覚の情報が両方入ってこそ得られる感覚なのだと。
それにしても、この環境で何故登場人物たちは平気なのか不思議でならないほど不気味な音がずっと流れたままなのだが、映画も中盤に差し掛かると、観ているこちらも慣れて来ることに気づいて戦慄する。
これを体感するために私たちはこの作品を見せられているのかもしれないと思った。観客は言わば共犯者である。
そんな場所でありながら自分達が築き上げた『楽園』を手放したくないと訴える親衛隊員の妻が怖い。
ユダヤ人をまるで物のように扱う計画を立てる軍人達にも慄いたが、あの妻の存在が最も「人間って恐ろしい」と思わせた。
さほど長い映画ではないが、いつ終わるのだろう、ある程度歴史を知っているので、どういうタイミングで終わるのだろうと観続けていたら。
現代のシーンが入る。淡々と。これは強烈だった。私たちはやはり共犯者なのだ。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のようだ、と最初に書いたが、とても軽いとは言えない物語と音響の凄さが似ているから思い出したのだ。あの映画はヒロインがいわゆる現実逃避をしているところに自分を投影させられたが、こちらは共感出来ないのに引きずり込まれる感じがした。
どちらもかなりの力作だがもう一度観たいかと言われると、もういい、と思ってしまう点も似ている。トラウマとまではいかないが、映画体験としてはなかなかない壮絶さだ。
しかもアウシュビッツは実話だ。
人間の感覚はここまで麻痺してしまうのか。直接人を手にかけなくてもここまで残酷になれるのか。
確かに、見て見ぬふりをするのは人間の得意分野なのだ。
この映画は過去の遺物を描いたものではない。
米アカデミー賞で評価されたのは会員にユダヤ系が多いからなのかもしれないけれど、そんなことで片付けられる作品じゃないと思う。
だって被害者だったユダヤ人が今何をしている?
人間はどうやら戦争をやめられない生き物らしい。今もウクライナやガザ、或いはそれ以外の地域でも残虐性を発揮し続けているではないか。
そのことを忘れてはいけない。目を背けてはいけない。
突きつけられたのはそういうことだった。
※余談なのだが、観始めてから程なく映画館が揺れた。震度2程度だったが元日の能登半島地震の記憶ゆえ、より不安にかられた。映画の中の不安とあいまって、余計に早くここから出たいという気持ちになったかもしれない。とはいえ、それがあろうとなかろうと感想に大差はない※
#関心領域
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?