『ありきたりな女』(mf記)

椎名林檎嬢のにわかファンになったことがある。
『カルテット』というドラマにハマり、その主題歌『おとなの掟』の魅力にガツンとやられた。超絶格好良い。
その流れで遅ればせながらCDを数枚購入。こりゃあ痺れるね、と思う曲も幾つかある。
『赤道を越えたら』なんてとても惹かれた。男と女をこんな形で歌うとは。『おとなの掟』でも白黒つける云々が歌われ、対比を表現させたら林檎姐さんは天下一品なのではと思った。

ところで昔は、レコードやCDを買うとプレーヤーの前に正座して歌詞カードを見ながらじっくり聴いたものだが、最近は主に車の中で聴くので、歌詞はすぐには入って来ないことも多い。何度も何度も聴いて味わい深くなっていく歌もあるのだ。
そんな状況で『ありきたりの女』を聴いた時も当初は流し聴きみたいな感じだった。なので
「あなたがいた素晴らしい世界よさようなら」
初めはそう聴いてた。愛する人と別れ愛しい日々は戻って来ない、そんな歌なんだなと暫くは思ってた。
それがある日気づいたのだ。あれ?全く逆じゃん。

「さよならあなた不在のかつての素晴らしき世界Good bye」

あなたがいなかった世界の方が素晴らしい、だって?あれれ。目が点になる。 

そこから改めて歌詞を読む。
違う、これは母になった女の歌だった。
そうか、そうだったのか。それがわかるとめちゃくちゃ刺さった。

歌詞を読む限り、新しい生命を宿したことで今まで持っていた繊細な音を感じる力を失ったということで、これは作者が歌作りをする人だからの感性なのだと思う。実はその部分に対しての共感が強かったわけではない。

自分はかなり自由を手放したと思っている。
母になるということは自分の時間や行動を制限される。それはどうしても逃れられない事実だ。出産する前も後も。
ここで女は損だとか言いたいわけではない。物理的にどうしても奪われてしまう自由がある、ということ。母になる喜びと引き換えに。

殊に我が子は知的障害を伴う自閉症者だ。生まれて来た子が足枷のようになっている場面は数多くあり、福祉の手を借りても解消出来ない問題もあるのだ。

決して子供を愛せないわけではないし要らないとは夢にも思わないけれど。
それでも、比較三原則を唱えられたみうらじゅん先生には過去の自分と比べるなと言われそうだが、時折、子供のいない頃の自由さが輝かしいものに見えて仕方がなくなるのだ。

でも不自由さを嘆くのではなく折り合いをつけながら生きて行くしかない。歌の中できっぱり主人公がGood byeと告げているように割り切り、代わりに得た何かと共に生きて行くしかない。
そう、もし自由を手放さずに済む人生だったとしても、きっと別の何かを失っているはずなんだ。何もかも掴まえられる手を持っている人などいないし、掴まえてもするりと逃げることもある。

林檎姐さんの感受性では多分、能力を失ってどこにでもいる女になってしまった、ということがタイトルの由来のように思える。
じっさいは繊細な世界との別れを悼むことより、私のようにいくばくかの不自由さに歯噛みをする人の方が多いかもしれない。
失ったものは人それぞれ違うだろうけど、失ったことに気づいて嘆いてしまうのは、それこそありきたりなんだと思う。

では間違いなく自分は、ありきたりな女で、刺さったのはそういう部分。あくまでもその部分。
自分だけが不幸みたいに思うことなど何もない。


#ありきたりな女
#椎名林檎












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