国鉄末期のことですが。

103系が脱線してフェンスに寄っかかるという事象を視た記憶があります。

当時、東京西部の運行の要衝になる駅(青梅駅ですが)のそばにある小学校に通っていた頃に実際にあった話です。

駅構内の側線を走行していた103系の3両編成車が、大きな音を立てて脱線し、線路脇のフェンスに寄っかかってしまったのです。
車体は45度くらいに傾くような感じで。
フェンスも横田基地に設置されているような金属フェンスではなく、街の公園にありそうな感じなものです。

確か土曜日で、半ドン(プレミアム世代とかZ世代の連中にはわからんでしょうね)の授業中に事は起きた記憶があります。

ただその事でマスゴミが来ていた記憶もありません。
今なら各局こぞって来るでしょうし、Twitter辺りに脱線の様子が上がっていることでしょう。
あれだけフォトジェニックになるものはありませんでしたし。(皮肉の意味も込めて)

で、運行はどうしてたかといいますと、下り本線こそ使用不能になっていましたが、上り本線を使っての交互通行で運行はしていました。
当時は立川~奥多摩間の通し運行が主でしたので、本数を絞って両方面の隣駅で上下交換をする形で運行をさせていたのでしょう。
そしてその中でも貨物列車をきちんと走らせていました。

脱線した原因はおそらく線路の幅が何らかの原因で所定より開いてしまったのでしょう。
枕木も本当に木製でしたし。
ある意味国鉄末期そのものだったなと。
これとほぼ同じ事象が後にJR北海道の大沼駅で起きてしまったのですが。

103系とて、その頃は全て低運転台車で試作車も走っていました。
編成も3両、5両の組合せでしたし、行き先表示幕も独特な手書きでしたし。
オレンジ色(マニア的に言えば朱色1号)がデフォルトの所に青色やエメラルドグリーン、黄色の車両が編成内に挟まってやけにカラフルな時期もありました。
そして101系も201系も走っていました。
青梅線自体が中央線快速電車との直通運転を古くから実施しており、その関係で。
そのため101系、103系、201系のほぼ全てのトップナンバー車が青梅線を走っていましたし、103系に至ってはラストナンバー車も走っています。
そしてE233系もいの一番くらいに投入され、今はそれに統一されています。
しかしながら走り始めた時期がテレビの過渡期だったこともあるのか、扉上のLCDディスプレイが4:3という今の基準だと残念な感じでして。
そういえば、E233系が運転を開始した日の下り1番列車に乗りましたね。
訳あってH43編成から営業運転が始まっているのですが。

話を戻しますが、国鉄民営化へのプロセスの中で欠かせないトピックとしてケーブル切断事故(そして浅草橋駅放火)でしょうか。
首都圏広域および大阪の国鉄各線でケーブルが切断されて夕方まで運行不能になったものです。
それを象徴するのが浅草橋駅の放火でしょうか。
朝テレビを付けたら、ヘリコプターから映し出された浅草橋駅から火の手と煙が上がっている様子を視て子供心に愕然とした記憶があります。

そして国鉄、いわゆる日本国有鉄道からJRへ移行した日は日跨ぎで各局がこぞってゴールデンタイムから特番を組んでいた記憶があります。
今では考えられないですが。

そういう時期を少年期に過ごしていた自分もある意味歳を取ったものだと感じています。
青梅駅で言えば脱線した側線や貨物列車の待避線も撤去され、後者の跡地ではホームの設置工事が進められています。

そして、そのJRの存在意義が改めて今問われています。
そういう意味でも時の流れを感じてなりません。

そういえば、国鉄を知らないプレミアム世代とかZ世代、さらには国鉄と共に青春を過ごした世代の鉄道マニア達が最近国鉄を懐かしむという傾向があるようでして、何ともはや・・・とは思ってもいますけどね。

なにせ中学の時の修学旅行は、私の頃は今で言うこだまのダイヤでしかも団子っ鼻がトレードマークの0系でのんびり京都まで行った記憶がありますからね。
シートもリクライニングしない、今で言えば大阪や名古屋の新快速と同じタイプのでしたし。
それとて今やのぞみが基本で、場合によったらN700Supremeに乗れるんですから。
恵まれてるよねぇと。

そういえば、青梅の丘の上にある鉄道公園に0系の先頭車が居たなと。
今考えるととてもワイルドな方法で搬入してましたね。
車両の向きを変えるためにコース上にあたる小学校の校門を壊すという荒業も駆使して、よくこの道から運んだなぁと思わせるくらいの。

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