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「分人集合体」と「ゴム風船」

先日、平野啓一郎さんの「分人主義」について、訳も分からずあれこれ書いてしまったのだけど、紹介者のコメントが力強く、やっぱりこれは読んでみたい!と、アマゾンワンクリックで、直ぐに届いた。

これでいつでも読めるなって思いながら、パラパラと見てたら、止まらなくなって、半分以上読んでしまった。任務がなければ、読み続けてしまったと思う。とてもやさしい言葉と表現だったので、するする読めたということもありますが、面白かった。

最初の章で、どうして「分人」という概念がでてきたのかが書かれてあった。平野さんの「本当の自分」探しが始まるきっかけ、他者とのコミュニケーション時の自分の態度に違いがある事や、居心地の悪さなどに真直ぐに目を向けて思索していることに、好感をもった。「ホントの自分」探しから始まってるのだけど、その結論として、「ホントの自分」なんてものは無いとなったのだね。「他者と接しいる自分には実態があるが、ほんとの自分には実態がない」と記されている。

他者と接しているいるときの自分を「分人」と名付けて、複数の他者との間にそれぞれ「分人」があり、その集合体が自分だということで、さらに2章で「分人」を詳しく説明してあった。各他者との間の分人を縦分けとするなら、横分けもあって、社会的分人、グループ向け分人、特定の人に向けた分人。後者にいくほど、密な分人となる。

「分人」と「八方美人」がどうも重なってしまうなって思いもあったが、違っていた。「八方美人」は、きちんと分人を作ろうとしていない、誰に対しても同じ態度(良い顔)であるから、相手が軽く見られているように思ってしまうことらしい。教師の生徒に対する態度を例に、書いてあった。

「分人主義」で他者との関係の中で自分のアイデンティティの作り方考え方が、様々な事がらを例(ひきこもり、自己肯定感、親との関係、ストーカ―等等)にとって考えられていた。

分人は、相手に合わせた自分ではなくて、相手と自分の交流の中に産まれたものであるから、すごく楽しく気持ちのよい好きな分人もあれば、ネガティブで嫌な分人も産まれてしまう。前者はどんどん深まって割合が大きくなって行き、後者は、だんだん小さくなって、気にならなくなったり、知らない間に無くなっていたるするのだろう。そうなれば、自分らしく生きる方法と解釈できるのかなって思った。自分といってもそれは分人の集まりということなのだが…。

私の感覚だと、「分人」は、私の中にあるというより、相手の中にできた私像なんじゃないかと思えたのだが…。私の妄想的な発想で描く自分は、風船のような柔軟に変形するまーるいもので、他者は、何処から見ても全体が見渡せない、お月さんのようにね。見えてることろだけで私を知る。私の意識は風船の中にあって、風船のゴム膜をみている、これもどう見ても、全体は見渡せないのだ。色んな状況下で、ゴム風船は常時変形を繰り替えす、伸びたり縮んだり、でもまた元の形に戻る、変わらない、変わるのは、風船の中にいる私だけ、ここが成長したら、きっと全部見える様になる。どんな様子なのかは、未だ想像できないのだけど、それが解脱ってことかな?などと、ヨガやってると思ってみたりする。なのだけど、その風船の中の自分の意識って何なんだろう??

平野さんは、自分のことはよくわかると書いていたけれど、私は自分のことも分かっていなくて、幾ら考えても謎がある。他者も私を知り尽くすなんてことはなさそうだ。

分からないままを受け入れて、少しだけでも分かった時は喜ぼうって思う。次の瞬間に誤認知だったと知る悲しさも味わおう。と、今は思える。

「分人」、まだよく分からないところもあるけど、読みながら、色々な考えが浮かんではこんがらがって、また考えてと、楽しくなった。「分人主義」は、すごくよく考えられてて、興味深い。今後もっと成長した主義となっていくのかもしれない。私は、独自の「自分イメージ」が湧いて来て、こちらも成長させたいと思うのだった…(^^)

本の紹介、ありがたや〜\(^^)/

読んだ本は、平野啓一郎著『私とは何か「個人」から「分人」へ』です。

分人


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