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「恩返し」

「恩返し」この言葉が、昨夜私の中に残った。お世話になった人への恩返し、親への恩返し、つるの恩返し…、色々頭に浮かんできた。「恩を返すなど10年早い」という言葉もあった。この恩というものが気になった。情けをかけること、受けた方でありがたいと思うべきこと」と、辞書には記してあった。思うべき…は言い過ぎだと感じたけど、受けた方がありがたいとおもった時点で、恩になるのは確かだ。

もし恩を返すとしたら、どのくらい返せばいいのだろうか。受けたものと同じものを返す。できないなら等価なものに換えてかな…。だけどその価値評価はどうだろう妥当だろうか。とても難しいことのように思う。だったらそのままにしておけばいい。「恩を売る」という言葉もあるが、受けた方は買った気がないなら、それで良しというのもありだろうと思う。

だけれど、受けた方が、すごく助かった、ありがたいと感じた時、その気持ちを何か表したい気持ちになるものは自然なことだと思う。だから「恩返し」となるのだろう。

その自然な気持ちに従って、恩への感謝を表すとき、やっぱり気になるのは、価値評価だ。どのぐらい?どんなもので?ことで?相手の求めに応じるのが一番良いとは思うのだけれど、恩情を向けてくださる方は、往々にして満たされていて然程困ったことがない。そこに無理栗、気持ちだと言って、何かしらの等価を渡してしまう光景はよく見るし、自分にも経験はある。

だけど、これは何となく後味が悪い。けれど終わって気持ちがスッキリしたという部分もある。両方が入り交じって、何だか居心地が悪い。どうしてなのか考えてみると、後味が悪いのは、自分の「ありがたい」という気持ちが十分表せてなかった、もっと言えばひとりよがりを押し付けてしまったかもしれないというちょっとした後悔。一方スッキリは、この件、これにて一件落着もうおしまいという過去にしてしまいたい気持ち。はたと思う。もしやこのスッキリ感がでるなら、受け取ったものは「恩」では無かったのかもしれない。または「売られた恩」だから繋がりを切りたいためのお返し。こううなってくると、同じ「恩」と思いきや、「受けた方でありがたいと思うこと」であったのだろうか?という疑問が湧く。

受けた恩を、価値評価なしに、「ありがたい」を表し、繋がりを持っていたい、そんな「恩返し」があるか?

そう考えた時、受けた恩は、そのまま返して閉じるより、恩を本当に必要としている人(別の人)に、渡していくことだろうと思った。はじめに恩を下さった方の気持ちをも無駄無く消化し、何かしらの手に乗せて、渡していくのだ。どうだろう、これならできそうに思うし、恩返しについてあれこれ考えることもなく自然にできる、さらに恩で繋がれる世界観は、安心を感じさせる。

昨日、ある方が壇上で、「愛してます」といいました。こんな事は妻にもいったことはありませんがと笑いながら。自然に生まれる「恩」「ありがたい」を表現したいで、繋がることでの安心感…想像…。「愛してます」という言葉が思い出され、言葉が繋がった気がした。

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