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合唱耳

この2ヶ月、合唱の伴奏をさせて頂いていまして。


今度の日曜日の本番でさようならなのが寂しいくらい、ガッツリなんどもなんどもなんどもなんども練習に参加させて頂きました。本当はスケジュール的に「本番のみなら。。」という感じもあったのですが、結局自分でスケジュールを確保し、出来る限り参加したくなり、この一ヶ月は平均週1以上のペース。


慣れて来ると、パート練も付き合わせて頂いたお陰か、伴奏していて、伴奏のどこがどのパートのどこに当たったりユニぞったりハモッたり絡んだりしているかが客観的な位置から把握出来る、その時の耳がとても面白かった。そして、はもれるはずのないピアノという楽器の方から音程を仕掛けることも出来るような意識と感覚と耳。


「あんたパート練にまで本気だわねー」と母(母も参加している)に言われたが、がっつんがっつん弾いているという意味ではなく。結構本気で耳使うと単純に面白いし勉強になるし新発見だらけだったりするし耳使わず適当にとりあえず鍵盤に触っていると弾いててもつまんないし気付かぬうちに耳が響き聴かない癖ついちゃったりする。母の言った本気とは耳の話で面白がってあちこち試しながら弾いてるのは母なのですぐに分かる。逆に適当耳も母に一番ソッコウバレるのじゃが。何を感じて音発してるか、当ててるか、相手の何を感じようとしてるか、どことハモロウとしているか、などなど、こっちが発信すると、面白い物で相手が受信してくれた瞬間というのは結構分かる。通常の会話と同じなのかも。さらに合唱で人数多いと結構面白い。


「あ、このヒト話聞いてないな」「あ、今多分理解してもらえた」「話題共有出来てるな」「あの人、あの人の言葉意識してるな」「こちらに意見求めてるけど本人の中で答え決まってるんだな」「場の波に乗ろうとしてる」「場の空気変えようとしてる」「自意識過剰気味だな」「私気付いてなかったや」


会話とアンサンブルってとってもそっくりだから、会話中に思うことと同じようにアンサンブル中も感じられる。まず「対音楽」に向かってることが最低条件になってくるけれど、それは会話の中で「話題を共有する」感覚というか、。ベクトルが「自分」「相手」みたいな「対ヒト」になると、音楽ってあっという間におかしくなる。はもらなくなるし、ながれなくなる。合わせててなんか変、、と思っているときは気付いたら耳ではなく自分の手のことを考えて弾いていたり。


相手を見つめすぎたり思考が単位細かい方に向かって行くと一見うまくいっているようで苦しくなってくる。じゃぁどこに意識置くかっていったら、「何も追わない」みたいなところに「ただある」みたいな感覚で耳がただ開いてて、耳感覚と皮膚感覚がどっちがどっちか分かんない感じで声部の絡みがただただハーモニーと拍子の波にたゆたゆしている中で、ふと気付いた物にくすっと笑うみたいな耳のときって、30人くらいの合唱なのにひとつの大きな固まりに聴こえたり、色んな質感が触感覚に訴えて来て溶けずに絡むのが面白かったり。和声からの距離感。拍子からの距離感。なんかほんとに面白い。


別に合唱伴奏してる時の耳ってわけじゃなく、たまたま今回沢山練習の数させて頂く中で、合唱の中でそこを感じるのが慣れて来たってだけで、ホントはもちろんソロの時もそこにいたい。んでもって、まだその感覚の扉一枚開けられたと思っても、きっとどこまでも何枚でも開く扉が次々存在するんだと思う。


パート練で、そのパートに対してしかけてる時みたいなのを、自分のピアノの多声部扱ってる時も耳でやればいいだけなのだが、なぜソロ曲ってつい「手弾き」しちゃうのだろう。昔から沢山弾いて来た曲とか、手癖指癖歌い癖が、耳で弾くことを邪魔する(T T)そこ越えると、何回弾いても自分でも面白がって新鮮に「その時の響きの必然」で弾ける感覚がする。

いっぱい学びたいトピックあって。机の上での和声学や歴史、身体操作、筋肉を鍛えること、時代様式の理解、各楽譜の版の比較、いっぱいいっぱいあるけど、とりあえず空前の大ブームというか、もうずーーーーっとずーーーーーっときっと一生謎で面白くてブームなのは、やっぱり耳かもしれん。

まだいつもは居られないけど。あそこはいったいどこなんだろうね。

(2011年5月27日 旧ブログ投稿記事より)

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