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「僕が投げた球を僕に投げ返しちゃ駄目だよ」

大人になってから
誰かにレッスンを受けるとき、
誰かからアドバイスを頂くとき、
誰か共演者から意見をもらうとき、

いつも思い出す言葉がある。
専門学校時代の大好きな先生がくださった言葉。
「僕が投げた球を僕に投げ返しちゃ駄目だよ」


共演者のために弾くのでもなく、
先生に批判されないためでもなく、


そうでないと、
一見よさそうにみえても、無責任の音になってしまう。
音楽に向かってるのではなく、
何か勝手に定めた「正解」に向かっている演奏はすぐバレる。

「だってアナタがそう言ったから」という音になってしまう。


でも、もらったアドバイスをすぐに腹で理解出来なかったとしても
「とりあえず試してみる」ことで見えて来ることって沢山ある。

あくまで「自己選択」で奏でる。
それが、「試してみる」だとしても、自分の意思で試す。
そうすると、

とにかく器用に言われたことをぽんぽんこなすよりも、

ちょっと不器用かもしれないし時間かかるかもしれないけど、
今の自分に必要な分量だけちゃんと新たなものを学習出来て、
しかも、今必要ないと思ったものでも体内に残って、
ある時に、タンスの奥から発見されるみたいにして、
時が来ると理解出来るようになることも、ある気がする。

かんがえあぐねてぐにぐにしていることが多いけれど、
ありすぎるくらいの実感の中で音楽に関わっていられることは
幸せで仕方ない。宇宙に触ってるんだよー!というような感動。

音楽の様式とか、奏法とか、各国の特徴とか、
常識とされてるものとか、解釈とか、歴史とか

180度違う意見のものでも、知ってみたいし、
教わりたいこと、学びたいことはたくさん。

いろんな音楽の「多面」が見えて来ると、
なんだか音楽って多面すぎて、球なのかなとか思ったりもして、
そう思うと、
そっか、多面過ぎて球って、なんか良いなとか思って。

そう思うと、地球が丸いって、なんか素敵だなとか思って。
きっと音楽も、丸くって、
地球みたいに
どの角度から見たかとか、どの位置に立ってるかで、
気候とか文化とか宗教とか国とか法律とか言語とか
見え方も感じ方も湿度も触感もスピード感も色も
きっと、
音楽に関わる人ひとりひとりに音楽さんは、
「この人にはこの面をみせよう」
「この人にはこっちの面をみせよう」
「この人にはあっちの面をみせよう」
「この人には…」

っていうのを四方八方360度の人それぞれに
見せてくれているだけなのだから、
地球の向こう側に居る人と、見えているものが違うのは
あたりまえで、
でもどちらが見ている物も、地球に違いなくて、
どちらが見ている物も、音楽に違いなくて、


だからこと、自分はある一面しかみえていないのが、
他の人が見せてもらっている「面」を知ることができたら、
知ることが出来た分だけ、面の数が増えて、
自分の中の音楽が多面化してきて、
どんどん球に近づいて行くんじゃないだろうか

球を投げ返してしまうのではなくて
受け取って、新しい球になったら、
別の誰かに投げたりしてみたり
そうしたら、もしかしたらみんな、
自分が見えてる「面」が「一面」だったことが分かってきて
でも他の人と「別」の物体を触っているわけではなく

同じ物体を別の面から触れているだけなんだって気付いて
自分が触れている何かが、多面化、立体化してくると
自分の役割も見えて来て、他人の役割も尊重出来るようになってきて

寂しくなくなって来て、他の存在を怯える必要が無くなって、
ひとつの球を構成するのかな。

返さなくていいよ、といっても
その投げる球は無責任ではなく。
受け取る球も、自己責任で。
次にどこにどう発するか。

。。。。

音楽が球体。今日初めてそんな気分になった。のは
おそらく昨日テレビで宇宙特集観てたからかな。笑

(2011年4月5日 旧ブログ投稿記事より)

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