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チェロアンサンブル

「ちぇろあん」と呼ばれるコンサートに初めて行った。
一曲目、プログラムにない追悼演奏に感動した。たまげた。


チェロという楽器は低音のベースも、内声も、上に乗っかるメロディーも、どの役割でも果たせてしまうのだなーと。ピアノはもちろんそのどれもをいっぺんにやらねばなので当たり前だけど、他の楽器のことを考えると、出来ることがたくさんなのかなーと。だからチェロのみであつまっても、オケみたいなサウンドに聞かせられるのかな。凄い。うむ。


2階席から観ていたのだが、ひとりひとりの音っていうのも聴こえて来るから不思議。そしてひとりひとりが「どう感じて」弾いているかがも、視覚的なところからもこんなにわかるもんなんだーっていうのも思った。特に、「フレーズをかなり先まで大きく把握した上で割り算で進行させている」ように弾いているベースや、その大きな和声進行を理解把握した上でメロディーを遊ばせている、というようなときには、視覚からも音が音楽的に見えて来る感じがする。


私はいまキラキラ星を練習中なのだが、脳内イメージで「こんなふうに弾きたい」という音イメージや弾いてる格好イメージだけはなんとなくある。例えばこのドの音は伸ばしているうちに、同じドなんだけど色が変わって、着地点に落ちるときは音は下がるけれど空気は上に上って行くみたいな音にしたい、みたいな意味不明なイメージがあったりする。でもそんなこと思ってもまだそんなことは実際の音には1みりも反映してくれない。

面白いもので、ピアノの場合、イメージが当然あって、ついてくるテクニックもあるけれど、まだまだいくらでも永久にテクニックを向上させられる部分ってあって、で、どっかで自分の中で、ある程度できちゃう部分で「ここまで」といつのまにあきらめて、その中で再現できるとこにとどめている部分ってあるなーと、なぜかチェロと比較して思った。


チェロはまったく出来ない分、「もっとこうしたい」と思う。

ピアノは自分の出来る範囲内でしか、描こうとしない。
それはまったくもって、いかんではないか。と。


チェロアンの全体のアンサンブルに感動したと同時に、
結局自分のピアノについて考えさせられて帰宅しました。

(2011年4月6日 旧ブログ投稿記事より)

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