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人が誰かを語るとき

人が誰かを語るとき、
アドヴァイスや批評はある意味
語るその人本人の説明、
価値観のお披露目に過ぎなかったりする。という話がある。
もちろん全てではないし、別に、悪いという意味だけではない。


でも
それ理解してるがゆえ
相手を尊重するつもりになって顔色伺ううちに発言出来なくなれば、
状況と立場によっては無責任と言われることもある。

どちらも自意識過剰から起こるが、

戦う相手が「自分」の時は、
「語る」ことも、「語られる」ことも、
結構おびえなくなるもの。らしい。


自意識過剰とは、自分を意識している、というか、
他人からどうみられるかを気にしている状態。


教えるという仕事と、教わるということを同時に続けている中で、受け取り方、受け取らせ方、というポイントを考えることが時々ある。上手な受け取り方。上手な投げかけ方。そして、自分が投げたボールを投げ返そうと思わせないこと。投げられたボールを決して、投げてくれた方に投げ返そうとしないこと。


最近のマスタークラスのトピックが、指導者として、演奏者として、という両方の立場をとっている人向けの内容だった。
現役選手を教えるコーチが選手より力があれば選手続けていればよいのだから、より上手い必要はないし、コーチとしてのプロというものがもちろんあるし、良い演奏家と良い指導者が必ずしもイコールとは限らない、と。「全く自分は人前では弾かない指導者」が多い中で、ここの受講生は全員が演奏も指導もするメンバーだった。


指導されているのをみられるのは良いが演奏は聴かれたくない。
演奏はいくらでも聴かれても批評されるのも良いが、指導はみられたくない。

なぜこの2つが産まれるのか、分かれるのか。というもの。
結局結論はわからなかった。
でも結論出すことが目的ではないから良いし、
考える中で、色々なことを考えさせられた。


他人からどうみられるか
それより、
いま自分がみえているものを、
過大評価も過小評価もせず、
たんたんと見つめたり掘ったり磨いたり、
そして
たんたんと伝えたり語ったり教えたり。


自分が見えている物が全てではないことを知っていれば、
むしろ「今」自分が見えているものに
ある意味、自信が持てる。
明日変わるかもしれない、「今」見えている自分の真実を、
大切に出来ると、
たぶん今日の他人も明日の自分も、敵ではなく味方になる。


他人という鏡に映った自分を解説する暇があったら、
自分きゅっきゅっきゅっ磨いて鏡に使ってもらえば
いいのかな。

それすらも音楽なら音楽そのものだけを
なんとなく追っていれば
どっちでもよくなる感じがした。

人が誰かを語るとき。
その誰かが「誰かの曲」になった時も、
きっと似た現象があるかもしれない、と
応用でちょっぴり思った。

良い意味で
曲に自分を映して語らせたり。
曲を自分に映して語らせたり。
でもその価値観のお披露目が、みっともなくならないためには
「今」を感じたままのサイズで捉えていれば、きっと怖くない。

演奏するでも、教えるでも、なにするでも、同じなのかもだけど、
クリアにそのトピックに向かっているときに捉えている域の感覚。

(2011年6月4日 旧ブログ投稿記事より)

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