音楽雑誌を読んで

ふと楽譜の整理をしていたら、2004年の某音楽雑誌があった。

その号はたまたまバロック特集で。
本日、バロックではないが古典の楽譜のアーティキュレーションの解釈にとても興味を持ってあーだこーだ調べながら弾いていただけに、とても興味を持って読んだ。


いつも思うのだけど、
音楽に関わっていながら、「音楽そのもの以外のこと」に囚われながら弾いていた時間がいっぱいあったなーと。もったいなかったなーとも思うし、でもそれはそれで経過したから今があると思えば、凹みすぎずにすむし。

たった一冊の雑誌からでも、受け取る側のアンテナとか受け皿次第で、もの凄く沢山のことを得られる。でも、今日読んで今日は興味を持たなかったページを、5年後とかみて「なんであのときこれに興味持たなかったんだろう馬鹿だなーぷぷぷー」って思うのかもしれない。そんなことの繰り返しなのかな。永遠に知らないことだらけ。知らないことは恥ずかしくない。学ぶ姿勢のスタートライン。受け身の学びじゃなく、能動的に受け取りにいく学び方の方が、ちゃんとその時の自分に染み込むし、単純に楽しい気がする。でもそれって、子供のうちって難しいのかな。子供が親の顔色を伺うのはごくごく自然のことだし。でもどこかで、自分で考えて自分で選び取れなかったらダメなんだって、気付く必要が、大人になる過程でどうしたって出て来る。うんぬん。

奏法特集。アナリーゼ特集。歴史。精神論。ワーク。色んな切り口で、色んな専門家が色んな面白いこと書いてた。一冊でお腹いっぱい。こんなの当たり前のことじゃんって記事だって、どーせ…と思わずよく読んだら新しい発見がある。ホント音楽星だな。同じ星に住んでてもお互い知らないことだらけ。ホントのことも間違ってることもあるのかもしれないけれど。どう生かすかなんて、受取手次第。

でも発する側に立った時、少なくとも今の自分にとっては真理だ、と確信持つこと、持てるまで落とし込むこと、向かい合うこと、は出来るはずなのかなと思う。というか、言葉を発したり音を発する以上、その責任を、自分は持ちたいなというか持つ努力をしたいなというか、しろよ自分というか。

私が言えることなんて学者の先生みたいなこと言えるわけがない。言ってみたとこで借りて来た猫感満載にゃ。でも、自分の目とか耳とか身体で経験して、純粋に音楽と向き合った時に音楽が直に教えてくれた実感のあるものなら、言えるし伝えられるし、その言葉になら責任を持てる。


そう思いながら、原稿を書くぞ。(・∀・)

(2012年7月24日 旧ブログ投稿記事より)

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