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謙虚さと想像力が良質の勉強を作ってくれた経験

今回は、少しつらい話なのですが、高校時代の恩師の死を通して学んだことを、皆さんにシェアしたいと思います。今でもあの時のことを思い出すと胸が痛みます。また、当時の私の態度から未熟さがよくわかる文章なので、公開するのもちょっと恥ずかしいです。でもします。うふふ。あと今日の写真は、2年くらい前に撮ったやつです。

このノートは、どちらかというと、人のためというよりは自身のために書きました。元気がないときにこれを読んだら、きっと新しい学びを得ることができるだろうと思ったからです。だから、ちょっときついな、、と思っても、それは、みんなを苦しめる言葉ではなくって、書いている自分に向けていってるんだな、と思ってほしいです。

高校二年生の時の出来事でした。夏休み直前のの期末試験が終わり「よっしゃ~!!今から遊んだろ!!」というタイミングでの出来事でした。

そんな解放感マックスの矢先、学年集会でモニターに映された向こう側で、突然、先生が神妙な顔になりました。夏休みのはじめなのにもかかわらず、その表情です。これはただ事じゃないぞと思いました。もしかしたら誰かの訃報かもしれないということが、なぜかはわからないのですが、頭でなく、はっきりと肌で予測できていました。

「つい2~3日前のことなのですが、 M先生が、新宿駅で突然倒れられて」

M先生とは、私にとって、とても大切な先生でした。いつも優しくて、みんな慕っていて、本当に素敵な先生だったんです。

私の通っていた高校では、二週間に一度、学校ではなく予備校から優秀な先生を呼んで、生徒は一人当たりたったの1000円から2000円の授業料を払うだけで、予備校並みに素晴らしい授業してくれるというものがありました。私はいつもその授業を心待ちにしていました。授業ではいつも笑顔で、先生の手にかかれば、どんな難問も簡単になってしまうのです。どのくらいすごいかというと、高校一年生の子に、早稲田の政経学部の封建制度の崩壊についての英語の文章を完璧に解説してくれるような素敵な先生でした。なんだか、彼女からは「高校一年生だからどうせわからないでしょ」みたいな卑しい雰囲気がちっとも感じられなかったんです。むしろ、私でも超難問が簡単にわかる!と思わせてくれて、自信をつけさせてくれるものでした。もっとも、それで自信をつけたと思って自分ひとりで立ち向かってみたら、ちんぷんかんぷんでダメダメだったんですが。でも、高校一年生が入試問題に立ち向かおうとする気持ちを持たせてくれるだけでも、本当にすごいことだと思うのです。出題も、女子高生(女子校でした)でも楽しめるように、オードリー・ヘプバーンやココ・シャネルの言葉を和訳するような、魅力的なものばかりでした。しかも彼女の授業を受けていると、1時間も2時間もが、たったの15分くらいに感じられるのです。ふと、どのくらい時間がたったのだろうと思って時計を見たら、いつの間にか授業が終わる5分前だった。あの独特な感覚は、絶対にほかの教師では味わえません。私だけではなくて、みんなも同じようなことを言っていました。なぜなのかは、後々判明することになります。もうあの授業を受けられないと思うと、惜しくて惜しくて……。

だから神に祈りました。うそでしょうそでしょ、お願いお願いお願いお願い。M先生、それだけはっ……!

「本当はすぐに皆さんにお知らせしたかったのですが、定期考査が終わるまでは言わないでおこうということになったのですが」

だからなんなんだよ、もったいぶらなくったっていいでしょ、生きてるんだから…

「倒れられたときにはもう意識不明で、そのまま」

さすがにそれはうそでしょ!?!?!?!?嘘であってくれ、神様神様神様!!!!!!

「帰らぬ人となりました。」

はぁーーーー!?

あまりにも驚いて、また、あまりにも最初に予感した最悪の事態にぴったりはまって、つい、はぁー!?と言ってしまいました。思いっきり声に出てました。でも、私だけじゃなくって、みんなもびっくりしていました。

本当にびっくりするような夏の始まり方でした。

そして、秋になりました。後継者となったのは彼女の旦那さんでした。その先生も素敵な先生でした。

今の私の勉強法の中核になっているのも、彼の言葉だと思います。

彼が最初の授業でなさったのは、「勉強とは何か」ということでした。

先生にまず聞かれたのは、ちゃんと予習はしているか、ということでした。一応毎回予習はしていましたが、適当に答えを埋めていた時もあったなあと思いました。先生によると、そういった人は授業で10教えてもらっても、1~2で終わってしまうとのことでした。そこをまず8以上にあげる必要がある。それが丁寧な予習だとおっしゃいました。でも、それだけではだめで、これでは到底賢くはなれない。本当に賢くなりたかったら、教師の立場に立って、どうやって教えているのか想像することだ。想像することで、理解力は10倍にも100倍にもなるというお話でした。今もあほですが当時の私は今よりも数段アホでしたから(本当はこんなこと恥ずかしくて書きたくないんですが、それでもみんなに知ってほしいので書きます→)「なんだ。そんなことで賢くなるなんて。そんなに期待させといて、ありきたりのことじゃないか」と思いました。

すこし先生の語気が荒かったのを覚えています。その気持ちも今ならわかります。大切な人が時間をかけて、命を割いて作った教材を、ぞんざいに扱っているという事実に、やるせない気持ちを感じていたのでしょう。ですが、もし、私が同じ立場だったら、たぶん感情的になって生徒の前で怒っていたと思います。先生、ごめんなさい。

でも、その時に感じた想像力こそが、のちに本当に役に立つことになるのです。それどころか、勉強の域にとどまらず、いつしか私の中での経典になるほどです。

M先生は、いつも一か月分くらいのテキストを両面印刷で10枚くらい用意してくれますが、実はそのテキストを作るために、1センチや2センチの厚みが出るほど何百枚も原稿を作っていて、そしてそのうちのたった10枚、20ページ分だけが私たちの手元に渡っている、ということでした。それを聞いても未熟な私はまだピンときませんでした。なんなら、これを言うのはホンっとうに恥ずかしいことなのですけれども、なんでそれを生徒に言うんだ、勉強に関係ないし恩の押し売りを言ったところで何の意味があるんだよと思っていました。正直なところ、その場の雰囲気も困惑状態でしたから、その様子を見るに、そこにいた多くの生徒も、私とおなじように過激なことは考えなくとも、先生の思う価値と自分たちの間に生じている価値の乖離は感じていたと思います。

けれど、そのことについてその後も4年間ずっと考えてきた今では、手に取るように彼の伝えたかったことが分かります。今では手元に、そのテキストが残っていないのが残念なのですが、まだ虐待現場から逃げ出す前までは、いつもお守りにしていました。先生の簡潔で少ない枚数のテキストからは、私たちには計り知れないほどの思いが詰まっているのです。

とにかく、それを聞いてから、勉強するときに想像力を働かせることにしました。それまでは、授業で伝えられる膨大な情報量に振り回されていただけでしたが、想像力を働かせたら、与えられた情報に振り回されることも減りました。想像力を働かせるというのがどういうことかは説明されませんでしたが、私なりに考えてみた結果、いつの間にか頭にはこういう思考が出来上がっていました。

「ここを問題にするほど伝えたかったということは、きっと、乗せなかったこの部分と、テキストに載っている部分とを比べて、その結果こっちをとったのだろうなぁ」

そう考えることで、テキスト以上のことを学ぶことができ、範囲内のことだけでなく、テキストを通して伝えたかったことを知ることができるようになりました。授業を聞く側から、授業を作る側の情報を俯瞰できるようになりました。先生の努力をおもんぱかると、「あ、これもいれたいな」「こっちもいれたいな」そんな風に悩んでいる様子が目の前に浮かんできて、具体的に浮かんできた事柄についてはそこで覚えてしまおうと思うようになりました。

私は経験則から、10の情報から10をきっちり得るよりも、100の情報から30を抽出することの方が身になりやすいという風に考えているのですが、もしかしたら、そう考えるきっかけはここにあるのかもしれません。

先生が何百枚も作ったテキスト。どれだけの情報をそぎ落とした結果、たったの10枚だけが残ったのだろう。仮に全体の90%をそぎ落としたとしましょう。高尚な話なのにたとえが酒でなんか申し訳ないのですが、八海山の金剛心って知っていますか。金剛心は八海山の大吟醸の数倍の値段が付くお酒です。以前日本橋で金剛心をいただいた時は、あまりの美味しさにびっくりしました。高価な酒なので、わざわざほかの酒とグラスを分けるほどです。もちろん、金剛心の方が格段グラスも豪華で、繊細なものでした。ですが、そんな金剛心ですら、精米の歩合が三割五分だそうです。たったの10%に絞るというのは、どのくらい大変なことなんだろうと思いました。

たったの10%とは、どれだけありがたいことなのか、今となっては身を切るようにわかります。

M先生が伝えたかったこと。最後まで一生懸命私たちのことを考えてくださっていたこと。今まで何も考えていなかったことを後悔し、心から反省しました。どうしてもっと先生の授業のありがたさを考えられなかったのだろう。そして、もう会えないからこそ、そこに注力して、より一層の想像力を働かせるようにしました。感謝する気持ち、ありがたいと思う気持ちは、想像力を働かせるとき、より一層のエネルギーを生み出してくれます。

学時に自分の心を謙虚に持っていく心遣いも必要だと、M先生の旦那さんに教わりました。謙虚であればあるほど、その人から学べることは多いのです。人を見下していると、その人から学べることって、減ってしまうのです。見下している人から何か学びたいと思えますか?また、もしそれが自分と違って、すでに様々な経験をしており、優れた人だとしたら、損失はとても大きいと思うのです。目の前に良質な知恵が転がっているのに、粗末にしてしまうことになります。また、教える立場に立ってみてもわかりますが、教える側だって、謙虚な人にこそ親身に教えたくなるものだと思うんです。

ただ、そんな感謝感謝と言い続けるのってなんか宗教じみていると感じる人がいると思うのと、自分は恵まれているといわれる側だから、そんなこと言われても困っちゃうなぁ、と思う人もいると思います。実は恵まれている攻撃は私も経験があり、以前ツイートしたのですが、こちら。

中学時代の先生に、カンボジアで教育のボランティアをしていた人がいて、彼曰く、貧しいカンボジアの人たちの方が私たちより勉強熱心だったとのことです。 正直、だから何なんだよと思いました。 だから、私もこの経験を勉強ハングリーマウントみたいな形で振りかざすのはやりたくないなと思います

このツイートでは言及しておりませんが、結構怒ってたのを覚えています。そして、怒られても、攻められていると感じただけだったのも覚えています。その先生は、貧しい子供たちのことを知っているとは言えど、勉強レースに苦しむ子供たちへの気持ちを分かってくれなかったな、と思いました。

人を変えるのって、環境とかかわる人間だだけで十分だと思うんですね。私もそうやってきました。逆に言うと、環境にはそれだけの力があるんです。だから、その環境にいないと分かり得ないことだってあります。わからないけれど、その価値を理解しようとしている人もいます。だから、多様性という側面で考えてみても、わからない人を責めるような言い方はおかしいなと思うんですね。まぁ、自分がありがたいという言葉の価値を理解し、推進力にするきっかけになるのならば、それはいいことだと思います。

もし、私の記事を読んで、理解できない自分を責めているように感じ、なんか息苦しいなと思った方がいたら、このことを忘れないでほしいなと思いました。ただ、今あなたが生きていて、また誰かのために働いたり、生きているならば、それって素晴らしいことだと思うのです。

理解しようと努力する力だけでも、それはいつか大きな力になるのですよ。

そういえば、先日皆さんの読んでくださったノート記事で得たお金で、机を買いました(ありがとうございます)。

自分の机があるって、本当に幸せなことなんですね。しかも、この机は、みんなのおかげで手に入った机でした。毎日掌で撫でているんですが、そのたびになんというか、心にゆっくりとそのありがたさというか、なんか私にはわからない大きな力が寄りかかってきて、あたたかい気持ちになります。そうすると、なおのこと勉強がたのしくなるというか、ありがたいなと思えるようになるのでした。まあ、いろいろ言う割にあんまり頭良くないんですけどね。頭よくないのにこんなかっこつけて、恥ずかしい。。。。

実は、サポートなどを抜きにして、先の記事を読んでくださったお金だけで、机と椅子、そしてテーブルランプのお金がちょうど補えてしまいます。読んでいただけることとは、本当にありがたいことなのだなと思いました。私が以前家電量販店で働いていた時、雇用保険の問題で一日6時間までしか働けなかったのですが、その上限まで働いても6000円です。丸々一週間働きまくって得られるお金を、全部投球してやっとこの金額になります。でも、実際そんなことは不可能で、生活にもお金がかかっています。そう思うと、本当に価値が痛いほど身に染みて、もっと頑張ろうと思えます。

みんなの気持ちを感じると、俄然やる気になります。ほかにも、勉強だけではなくって、本を読むときも、より一層学ぼうと思えるようになりました。

ですから、こういった経緯もあって、忘却曲線を作らない方法は、たんに復習だけではないと思っています。頭の中に知識を入れるだけでは、日常に活きるほどの学習はできなくて、感動するほどの経験、実践知を通した知識だけが、私たちの中で血肉となっていくと思うのです。復習するより、心が突き動かされた体験こそが、忘れられないものになるのです。

古代ギリシャではこの実践知のことをフロネーシスといいます。厳密には現代語としての実践知とフロネーシスの間には乖離がありますが、ご勘弁ください。フロネーシスというのは、ざっくりというと経験を経て体得した知恵のことです。 フロネーシスは、物事の判断に一役買います。アリストテレスは、これを

”善き生についての真なる概念を持ち、 個々の選択を通してそれを現実化できる能力(卓越性)”

と言いました。物事の真理に到達するに、彼は5つの要素(技術や学問、知恵や知性)を定義しているのですが、フロネーシスは、その中でも、物事の善悪を判断するものとして定義づけられています。様々な経験を持って、紙や学問の上だけではなく、自分の経験値も加味し、総合的な知識の枠組みのなかで判断していく。

私は哲学のことなどは全然わからないのですが(間違っていたらご連絡ください)、感謝に突き動かされるほどの感動、経験を経て体得した知識のことこそに価値があり、知恵と呼ぶにふさわしいと思っています。やっぱり、紙の上で何やっても意味ないんです。経験するのが一番。百聞は一見に如かず。

あ、そうそう、これも有名な話ですが、百聞は一見に如かずには続きがあるんですね。百見は一考に如かず。百考は一行に如かず。百行は一効に如かず。百効は一幸に如かず。百幸は一皇に如かず。ただ知識として聞くだけではなくって、行動することで、より豊かになっていく。そして、それはやがて運命を動かすものとして変わっていく。

実践知と理論知とは区別されますが、こんな風に考えて勉強に想像力を働かせることで、より一層、実践知と理論知は結びつきが強くなって、総合的な判断力として、より賢く、かつより善い人生を歩めるのだろうと思います。

また、想像力というものは相手の身になってものごとを考える唯一の手段であるので、思いやりでもあります。これからももっといろんなことを勉強して、より善く、かつ、豊かで実りある人生を送りたいなと思っています。

M先生は、私たちに最後まで想像力の持っている、潜在的で大きな力を教えてくださった素敵な先生です。今日も、そんな先生の力を感じながら、いろんなことを勉強していこうと思っています。

以上、学校の道徳授業みたいな感じで申し訳ないんですけど、勉学も想像力と思いやりで乗り越えられると思うお話でした。じゃあね。

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