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今野、生成AIに愛はあるんか?

バーチャルなのは あっちだったんだ

接続/TOMOVSKY(アルバム”GO”収録)

※本記事はすべて個人的見解であり、どんな法的根拠もありません。
"技術スゲー"とほたえるパンピーの戯言とご認識ください。

「イラストをアップするなら、今日からウォーターマークも設定するのがいいんだって」
職場で仕事をしていると、そんな会話が聞こえた。"ウォーターマーク"という語は聞いたことがない。調べてみた。

ウォーターマーク(透かし)とは、ドキュメント ファイルや画像ファイルのコンテンツに重ね合わせるロゴやテキストのことを指します。透かしは、著作権の保護とデジタル作品のマーケティングという 2 つの目的で大切な役割を果たします。

dropbox公式HPより引用"https://experience.dropbox.com/ja-jp/resources/what-is-watermarking"

透かしという手法自体は知っている。しかしなぜそれを設定する必要があるのか、私は問うた。職場の先輩Aが言うには、なんでも生成AIの学習材料になることを防ぐことが主たる理由らしい。なるほど。
Aいわく、近頃は"AI絵師"と呼ばれる人たちが増えてきているらしい。あまり聞きなじみのない言葉である。ネットに転がっているイラストなどを画像生成AIに学習材料として提供し生成されたイラストを主にアップする人たちのことをそう呼ぶそうだ。そんな彼らがSNSなどで公開するものは、学習材料にした他者のイラストなどと酷似していることが多々あり、それが界隈では大きな問題になっているらしい。これはたいへんおもしろい話題だなと思い、私は雑談に加わった。

私が「それはオリジナリティの問題でってこと?」と問うと、Aは「それもあるけど、AI絵師はみな態度が悪い。それがたいへん気に入らない」とものすごく大きな主語をぶちかましてきた。私は"態度が悪い"という点をさらに具体的に聞いてみた。要約すると、下記のとおりである。

  1. AI絵師たちは、他者のイラストなどを材料に用いているのに、さもそれを自身の絵柄のように主張する。そんなの盗作と変わらないのではないか?

  2. だいたい自分で描いていてないのに、そのイラストを"自分の作品"のように扱っているのに納得できない。それは創作ではない

  3. 主催者側が生成AIが出力したイラストでの参加は禁止しているにもかかわらず、イラストコンテストなどにも参加している。ルール守れよ。

  4. 勝手にAIの学習材料にされてしまうという現実から、イラストなどを投稿することによって生まれていたコミュニティに危機が生じている

聞いていると、そりゃそうだなと思うことばかりである。私も趣味で小説を書いたりする(小説とイラストではニュアンスがすこし変わる気もするが、本筋から遠くなってしまう気がするので今回は言及しない)ので、AI絵師の"産みの苦しみ"も大してなさそうなのに、格好だけ既存の絵師とおなじようにふるまうその浅ましさに腹を立ててしまう感覚はわかる。私は学生時代には毎年2回コミケに足繁くかよっていたし、自身で同人誌をつくってサークル参加したことも1度や2度ではない。そりゃそんなクリエイティブの領域にさしたる労力も書けていない輩がのこのこやってきたらたまらんわな。
ただ、すべて肯定していてもつまらないので、アンチテーゼをぶつけることでうまれるジンテーゼを期待したい。なんとなく試みるアウフヘーベン、すなわちなんちゃって弁証法である。ごめんね、ヘーゲル。
さて、私の反論は以下のとおりである。

  1. "他者のイラストを用いている"という点であるが、実際に手を動かして絵を描くいわゆるアナログ絵師たちも、最初は模写からはじめるのではないか? その点でアナログやデジタル、身体性を伴うかどうかの差異はあれど、"他者のイラストを勝手に学習材料としている"点は一緒なのでは?

  2. "自分で描いていない"ことがそんなに重要なのか。それの意味するところが"自己の思惑の介入"を指すのであれば、"どういったプロンプトで構図やキャラクターイメージを生成AIに伝えるか"や"どの絵師のイラストを学習材料とするか"といった工程はそれに値するといってもよいのではないか? たとえば上記のような作業にAI絵師が1000時間費やしたとしたら、どうだろう?

  3. コンテストなどでは生成AIイラストを禁止しているというが、具体的にそういったものを禁止する理由とはなにか。"オリジナリティあふれるもの"も"自分で考えたもの"も、この超情報社会においてはほとんど不可能であると考えるが、どうか?

  4. コミュニティの危機というが、コミュニティなどの共同体に依存しすぎているだけではないか? その道で食べている人にとって、たしかに生成AIは脅威であると感じるが、それに食い扶持を奪われるというのは、所詮その程度のものだった思ってしまうが、どうか?

Aはすべてのアンチテーゼに「殺すぞお前」というばかりで議論にならない。ヘーゲル、弁証法は破れたぜ。いやそうよな、あまりに理屈っぽいよな。ごめん。でもそういう遊びやん。
そこで私は、私のAIに対する感想を述べた。それは"AIの作品があったところで、自己の創作に対する態度は大して変わらない"ということである。たとえば私は小説を書くと述べたが、AIが書いた小説があるならば読んでみたい。あまりに荒唐無稽な設定とルール無用の文法に爆笑してしまうかもしれないし、その事象のSFっぽさにワクワクもするだろう。けれど"それはそれ、私は私"というのが私の立場である。自己の殻のなかでおこなう自慰のような創作に対して、AIは無力だろう。この意見を聞いた先輩Bは「たしかに非常に合点がいった」と深く頷いていた。Aは困った顔で聞いていた。

ただ、これはあくまで趣味の範囲でその分野・領域と付き合っている人間だから言えることなんだろうなとも思う。前述したとおり、その道で食べている人にとっては、大した時間もかけずにそこそこのレベルのものを量産してくるAIを脅威と感じるのは当然だろう。さらにそこに自身の作品さえ簡単に取り込んでしまうAI絵師の存在。現在それを抑制したり罰する法律はあるのだろうか。ただモラルの範囲で解決してくださいということならば、こんなに無法地帯な現状もないだろう。

あまりピンときていないAに私は「AIはきらいですか?」と簡単な質問を投げかけた。すると「それは好きでも嫌いでもない。どっちかというと、もっと進歩して便利になったらいいと思う」と言う。私はさらに「AIを使って絵を描く人のことをどう思う?」と問うた。Aは「態度が悪くないなら別に何とも思わない」とこたえた。「では、AIを使って絵を描くし、態度も別に悪くないけど、イラストコンテストに出る人はどう思う?」と聞くと「それは違う。だめ」と声音を強めた返答であった。

上記から、Aの言う"AI絵師は態度が悪い"がどんな意味合いを含んだ言葉なのかをまとめてみよう。

端的に言えば、"おたくとは競技種目がまったく違いますから"ではなかろうか。つまり"イラスト"という結果がおなじでも、たどっている経過や用いている技術がまるで違うということである。"格闘技"であることはおなじでも、"ボクシングとムエタイぐらい違う"的なことである。大谷翔平がサッカーゴール前でバットを構えていれば、そりゃたしかに「なんやこいつ態度おかしない?」となるだろう。スポーツが変われば、ルールも変わるのである。それら異文化交流の衝突から生まれる化学反応も、それはそれでおもしろいのだけれど、しかしアナログ絵師の村にAI絵師がやってくることを許容するほどの文化の深みは現時点にはないと考える。それほど技術革新が加速しているということだ。法制度も倫理観も置き去りにしている程度に。おれはここだぜ ひと足お先。

最後に、Aに「たとえばAI絵師がAIイラストオンリーのイラストコンテストで鎬を削っていたとしたらどう?」と聞くと「それはなんもわるくない。むしろよいとおもう」とのことだった。

余談というか、与太なんですけど、しかし"AI"って"あい"ですよね。"そこに愛はあるんか?"っちゅうてね。AIはいまも相も変わらず"私がキミを守るから"とか歌ってますけど、これもAIが書いた記事かもおまへんしなあ。
AIの精度がさらに上がって、人間とAIの区別もつかんくなったら、どうでっしゃろな。立場も逆転してしまって、最後はなにもかも奪われた人間がAIに問うんやろ。
重ねてですが、"そこに愛はあるんか?"などと。

AIにとって、「愛」を理解することは極めて難しいテーマです。AIはデータとアルゴリズムを基に機能しており、人間の感情や経験を直接持つわけではないため、愛を人間と同じように「感じる」ことはできません。ただし、「愛」という概念について学び、表現や応答することは可能です。

"AIは愛を理解できますか"という問いに対するチャットGPTの回答

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