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頭の中で疑似体験

わたしは幼い頃から不安があれば脳内でシミュレーションして体験した気持ちになる事で安心するようなところがあった。よく大人しいと言われもしたが、授業中でも、お出かけしても、お布団の中でも頭の中は大体ぼーっとしていたのだと思う。

いろんな事を想像したと思うが、明日の学校のことから、空を飛んだら、あそこから落ちたら、旅に出たら、道に迷ったら、火事になったら、、、と色々なジャンルについて淡々と想像して、大体は解決する方向で終了する。

5年生の時、友達のお父さんが亡くなったと聞いた時には、その子がどんな気持ちか、どう接するのが1番いいのかとあれこれ頭の中で想像した。

きっと家族の話題なんかになると悲しい顔をするだろう。でも、それで謝られたりするのはいやだろうな。お父さんの話をガンガンしていくのも違う気がするし、しないのも違う気がする。

結局、その友達には普通にすることにした。


大人になって、自分の父も結婚前に亡くなった。そのときに、やっとあの子の気持ちがわかるのかもしれないなと思った。

でも、もう大人だし、わからないのかもしれない。私は意外と平然を装うことができたし、ここ数日もう脳内で色々な想像をしていたから、父が私よりは先に亡くなる事を受け入れていた。

想定外だったのは、まだ父は現役会社員で、多くの同僚もいたし、父の父親と母親、兄弟もいて、みんなにとって考えもしない突然のお別れとなってしまったことだった。

普段どっしりと構えている印象がある、私にとっての祖父母もおじさん達も、私のことなど気にせず悲しんでいる姿を見る時、1番心が苦しくなった。

私にとっての父と、みんなにとっての父は違った。祖父母にとって父はずっと子供で、同僚達にとっては仲間だった。

私も自分の子供や友人が亡くなる事は想像した事はない。生まれて亡くなる事は、唯一誰にでも平等に起こることだ。それはいつか起こる事かもしれないけれど、その悲しみは疑似体験しなくても今はいいかなと思っている。


大抵起きそうな事は一通り想像してきた私にとって、想像しないという事は、そうならないようにと願う事なのかもしれないし、もうそれがどれだけ心が痛む事なのか知っている事なのかもしれない。



私は父が亡くなってから、友人達に大丈夫?とメールをもらうのは単純に嬉しかったし、元気をもらった。

普通で問題なかった。
普通にしてくれる事が想ってくれているという事だった。

ご冥福をお祈りします。と言われてもありがたかったがあまりピンと来なかった。


1番心に残っているのは、遠く離れたところに住む友人から一言、「何かできることがあったらいってね」というメールがきたこと。

どうして素敵と感じたか、あらためて深掘りしてみたら、このメールには「ありがとう」って一言だけ返信したらよいからなのだと思った。


無理に元気を振り絞った返事を考えなくていいし、それでいて、何ができるのかわからないけれど、するよ。という正直な気持ちと心遣いを感じた。

それ以来、どう声をかけたらいいかなと迷う時には、この言葉を心を込めて使わせてもらうようにしています。


今日も読んでいただいてありがとうございました。

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