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私は土で、土は私

いまの世界は菌を殺すことに夢中だ。それって良いことなのかなといつも思う。いや正確に言うと森の中に住みはじめて、畑をはじめて、セロリ農家で働きはじめて、そう感じるようになった。私はいま標高1800mにある山小屋で暮らしている。家は白樺やコナラの木々に囲まれていて、聞こえてくるのは鳥の鳴き声や枝がぱきっと折れる音、たまに鹿の鳴き声。ほかには何も聞こえない。どこまでも静寂が広がっている。自分が人間という感覚を忘れた瞬間に森に吸い込まれそうな気がする。畑もはじめた。6×9mという家庭菜園にしては大きい区画を借りていて、週に何度か土にさわる。アルバイトをしているセロリ農家では雨が降っていても、霧が辺りを覆っていても、太陽がじりじりと照りつけてこようと畑に入る。人間がやりづらいなと思っても、土の中は毎日たくさんの微生物が動き回っているし、野菜も成長を止めない。だから畑に入る。ひとたび畑に入ると足元はもちろん、すぐに全身泥だらけになる。朝露に濡れたセロリの葉が私の肩を濡らして、次第に全身にいきわたっていく。そうすると不思議とセロリと一体になれた気がする。手入れをしてもいいけど、体を濡らすよ、と声をかけられている。体は冷たいのにぽかぽかしてくる。成長を促すために芽をかくと、セロリは勢いよく私の顔に泥を飛ばす。本当に元気がいい。手袋を外すと爪の奥深くまで土が入り混んでいる。はじめは一生懸命洗っていた。石けんを泡だてて、爪の中に暇な爪をぐいっと入れる。それでも土は私の体にしがみついている。あるときから一生懸命洗うのをやめて、土とともに生きることにした。そうして土は私になり、私は土になった。ほぼ毎日のように土にさわっているのだから、土が私の体の一部になるのは自然のことかもしれない。もしかしたら土も行き場を求めていたのかもしれないし、私も土を迎えいれることで自分が人間という縛りから解放された気がした。土と生きることを選んだ私は一人ではなくなった。その瞬間、自然という大きな生態系の中に組み込まれた。考えてみれば土から離れて生きることができる生物はこの世界には存在しない。樹木も植物も、動物も菌類も片時たりとも土から離れない。コンクリートやプラスチックの上で生きていた都会にいた私が土に戻った。土は私を静かに待っていてくれたし、私も土に飢えていた。都会にいるとふとした瞬間に呼吸が苦しくなるときがある。森や畑の中にいると流れるように呼吸ができる。息を吸って吐くことが自然の流れであるように、木々や植物と同じように私も呼吸する。私の爪にはいつでも土がいるし、ひょっとしたら畑から連れてきた微生物もいるかもしれない。両方ともいまの私にはなくてはならない存在で、殺したくない。石けんで手を洗うことはあっても、ふわふわっと適当でいい。アルコール消毒は気が進まない。私は土で、土は私だから、消毒したらみんな消えてしまう。この世界には良い菌も悪い菌もあるのは知っている。でも菌のない世界では生き物は生きられない。私は土とともに生きることを選ぶことにした。

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