見出し画像

放置してた紅茶を飲んだ(2020/9/1)

買ったきり封も切らずに戸棚にしまって4日もおいた紅茶をやっと開けた。

気が向くまでが長い

紅茶は通というわけではまったくないが好きで、缶のやつをだいたい常備している。毎日水代わりに飲みたいのが本心でもあるが、怠惰なので水を飲みがちである。ペットボトルのやつは味があまり好かないので買わない。

そんな感じで気が向いたときになんとなく淹れて飲むからあまり減っていかない。劣化してもいやなのですぐ飲みきれるよう100g入ばかり買う。ティーバッグは割高だし楽しくないと忌避しているくせにちょっとずつ買うのは矛盾している気がするが、だめにするよりはと正当化している。

そもそも、前述のとおり怠惰が服着て歩かない人間なので(この表現はありきたりの捻りで若干痛い気がする)、前の茶葉が切れてからそのためだけに外出するのが億劫で、何週間か紅茶を飲んでいなかった。母の買い出しに着いて行くかたちで今度のやつを手に入れた。

それから4日おいた。だって淹れるのってちょっとだけめんどくさいし。

で、今日気が向いたのはたまたま読んでいた漫画や短い小説に紅茶が登場したから。違国日記の主人公の家にはお茶っ葉たくさん揃ってます。この漫画のゆるい生活感と主人公の考えごとが好き。

話を戻すと、今日開けたその紅茶はトワイニングのアイリッシュブレックファスト。高くも安くもない。買ったことなかったから買ってみた。開けたら想定外にCTCタイプで、本当に何も考えずに選んだなと思った。

ざっくりお茶を淹れる

紅茶を淹れる手順はググると色々出てくる。気にするポイントというのがいくつかあるが、なんとなく自分にちょうどいい程度にゆるく守っている。

まずお湯を沸かす。空のやかんに、すぐ沸かしたいから最低限の量の水道水を汲む。一度に淹れる量の二倍、わたしの場合は大抵600~700ml。ふたをして火にかける。汲んだばかりの水道水というのがポイントらしいが、守ろうとして守っているというよりこれがいちばん楽。

沸いたら、まず空のティーポットに半分注ぐ。先に器を温めておくというポイントはなんとなく守る。温まったなと思ったら、それをザバッとマグカップに移す。少なく済むからお湯を使い回す。このへんは雑。

空いた温かいポットに茶葉を入れる。ティースプーンに二杯、ざっくり量る。紅茶ってだいたいどれも、一杯ぶんの葉がティースプーン一杯だから分かりやすくていい。たくさん飲みたいから、本当はもう少し大きいポットが欲しい。買うかは悩んでいる。今のが割れたら買おうかな。

茶葉を入れたら、残しておいたもう半分のお湯をザーッと注ぐ。理由は知らないが、勢いよく注ぐといいらしいと聞いてそのようにしている。ちょっと楽しいから。たぶんジャンピングは関係ないと思う。迷信っぽい感じがする。

お湯を注いだら、缶に書いてある時間でキッチンタイマーをかける。今回の茶葉なら3分(CTCなので短いね)。砂時計とか使ってるのを見かけるとオシャレだなあと思うけど、設定時間の融通がきかないし音も鳴らないのでわたしが使うには現実的でない。

タイマーを起動させたらそこからは特に何もすることがない。ポットがガラス製なので、葉のジャンピングを眺めたり、飽きたらツイッターを見てたりする。

タイマーが鳴ったら、まずバシンと鳴き声を止めて、マグカップのお湯を捨てる。そこに茶こしを使ってザーッとお茶を注ぐ。注ぐ前に軽くかきまぜると均一になっていいというのは注ぐとき混ざるだろと思うので守らないが、最後の一滴まで注ごうというのは守っている。ケチくさいだけかもしれない。

あとはちょっと飲んで濃かったら適宜水をさしてお茶はできあがり。ポットとスプーンを軽く洗う。これは後に回すとわたしは絶対やらないので。「後にしたら面倒なやるべきことをさっさとやっておく」が習慣化できた、わたしにしてはかなり稀有な例である。

なんか急にきた気づき

こんな感じで日々ゆるく紅茶を飲んでいるのだが、今日ふと気づいたことがある。どうやらわたしは、紅茶の味や香りだけでなく紅茶を淹れるプロセスに安らぎを得ている。

逆に今まで気づかなかったんですか?とも思う。気づかなかった。ところで、実家暮らしの今はしないが、自炊していた時は料理が現実逃避になっていた。料理のことだけ考えていると他を忘れられるから。ルーティーンになったお茶を淹れる作業は何も考えないのでそれとは違うけれど、近いような安心感がある。

わたしは習慣というものがとても苦手で、宿題をこなすだとか、帰ったら弁当箱を出すとか、水やりをするとかいうのが本当にできない。できなかった。だから「習慣」というだけでネガティブな印象を抱いていた。

紅茶を淹れるのも別に毎日ではないので厳密には習慣と言えないのかもしれないが、わたしの中でそれに近いものとして鎮座しているこの作業で心が安らぐのに気がつくと、なんとなく「習慣」ってもしかしてそんなに悪くないのか?と思えた。虫のいい話である。

実際、日々のタスクを習慣づけるのはそのぶん考えなければならないことが減ってめちゃくちゃいいと思う。わたしは部屋も脳内も一日のスケジュールも、スマホやPCの中もとっ散らかっている散らかし人間なのでそれができる人に憧れる。毎日すべきことを思考をショートカットして実行できるのはすごい。わたしはそれができない。

毎日の色々が習慣化されている人は、わたしがゴチャゴチャ考えながらしている、あるいは結局していないタスクを、わたしが紅茶を淹れるときのようなニュートラルな心持ちで消化しているんだろうか?自分じゃないので想像の域を出ないが、そうだとしたら羨ましい限りだ。

しかし、習慣化ってどうやったらできるんだろう。習慣化したいとは思うのに、なんでかできない。わたし個人の生来の欠陥である気がする。こういうのは考えるとつらくなるので、別のちょっと無益な考えごとをするに限る。

1ツイートに圧縮すると

久々に紅茶淹れて飲んだら、紅茶そのものだけじゃなくルーティーン化されたその行為にも安らいでるって気づいた。このノリで風呂とか日課とか済ませられる人ってめちゃくちゃ精神安定してるのでは?羨ましい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?