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隣人(一時創作)

 隣人が、気になる。
 ドキドキと胸が高鳴る恋的なものではなく、どちらかというとハラハラするような、心配だという意味での気になる、だ。
 隣人は、3ヶ月ほど前に引っ越してきた。休日で家にいた私には、引っ越し作業の音がよく聞こえてきたから覚えている。そもそも壁が薄いのだ、このアパートは。家賃3万なだけある。
 引っ越しの挨拶はなかった。今のご時世、挨拶をする方が危ないと言われるし、別に気にならなかった。まだ、私は隣人の顔を見たことがない。強いて言うなら、女性であるということだけは知っている。真っ赤なサテン生地のパンツがピラピラと干してあるのを見て、不用心だなと思ったのだ。
 私の話を少ししておこう。と言っても、特筆すべきことはない。偏差値50の大学を卒業し、地元の小さな会社に入社した。どこにでもいるOLというやつで、新卒で入った会社も気がつけば勤続5年。何か功績を残すでもなく、社会の歯車をしている。7時に家を出て、18時に家に着く日々を、ただたんたんとこなしている。
 隣人は、いつも23時頃に家に帰ってくる。その時間を就寝時間にしている私には、鍵を回す音がよく聞こえる。別に聞き耳を立てているわけではない。何度も言うが、とにかくこのアパートは壁が薄く、生活音が筒抜けなのだ。ドアの開け閉めだけでなく、水を流す音、電子レンジの音まで聞こえる。そして、しばらくした後、ここからが隣人が気になる要因なのだが、啜り泣く音がかすかに聞こえてくる。ベッドを隣人側の壁にぴたりと付けて置いてあるため、泣き声は余計間近に感じる。現実と夢の狭間にいる時に聞こえるその音は、非常に良くない。夢見が悪くなるし、そもそもとても寝づらい。そんなことが、2週間ほど続いている。
 私は良質な睡眠を邪魔され、怒っているわけではない。もちろん心穏やかに眠れるに越したことはないのだが、見知らぬ誰かが傷ついているのがどうでもいいわけではない。何より、泣き声はひどく幼く聞こえた。まだ少女と呼んでも差し支えないようなその声に、心を痛めない人間がいるものか。

 ガチャ、と今日も隣人が帰ってくる音がした。時計を見ると、23時30分になろうとしていた。いつもより少し遅めだ。室内を歩く足音や水を出す音がひっきりなしに聞こえる。私は一度開けた目をもう一度閉じた。今から寝付いても、6時間しか寝られない。勝手に明日の打ち合わせのシミュレーションをしようとする脳みそを空っぽにするべく、ひたすら月を思い浮かべる。高校時代に修学旅行で行った、京都の座禅体験で得た知識だ。いまだに活かしているのは私ぐらいだろう。
 結局寝付く前にまた目を開くことになった。途中まではいい感じにまどろみ、夢の世界に旅立てそうだったのだが、かすかに聞こえる嗚咽に現実世界に引き戻された。いつものように、隣人が泣いている。
 またか、と思った。早く寝たい。隣人には聞こえないよう、ごく少量のボリュームでため息をついた。
 今夜はひどく長く感じた。寝られる気配はなく、ただ隣人の泣き声に耳を傾けた。別に、どうするつもりもなかった。気の毒には思うが、助けようとか、そんなおこがましいことは考えていなかったは。それなのに、気がつくと、隣人側の壁をコンコンと2回叩いていた。
 叩いてから、まずい、と思った。これではまるでうるさいと言っているようなものではないか。何かに悩まされているだろう隣人をこれ以上追い詰めるつもりはなかった。家の中でくらい、泣きたいように泣いてくれていい。ただ、居ても立っても居られなくなってしまった。直接助けることはできなくとも、彼女が苦しんでいる今、独りではないと伝えたくなってしまった。もしかしたら、行き場のない怒りや辛さに押しつぶされそうだった若い頃の自分自身を、重ねていたのかもしれない。
 咄嗟に携帯を出し、プレイリストを開いた。ひたすらスクロールし、目当ての曲を流す。
 ドリカムの「何度でも」。10代のころ、よく聞いていた曲だ。隣人に聞こえるよう、でも他のアパートの住民の睡眠は阻害しないよう、慎重にボリュームを上げる。私は隣人の事情は何一つとして知らない。何に悩んでいるのか、この歌が隣人の心に響くか、そんなことは何も分からない。それでも、祈るような気持ちで曲をかけた。これが、私にできる精一杯だった。
 約4分の曲が終わる。再び訪れた静寂。いつのまにか泣き声はしなくなっていた。
 携帯を枕元に放り投げ、しばらく何も考えず天井を見ていた。だんだんと睡魔が襲ってくる。
 コンコン、と控えめに、壁を叩く音が聞こえた。私は先ほどより優しく、大事に、コンコンと2回ノックを返し、今度こそ目を閉じた。


※作品は、同じ作者名で某小説投稿サイトで投稿しています(noteにて加筆修正済み)。
※フォトギャラリーより、イラストをお借りしました。ありがとうございます。

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