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短編小説「ぬめり」

因節

十二歳の誕生日を過ぎて一月ほど経った頃。私はお盆の用事で訪ねた親戚の家の床の間で、畳に寝そべって縁側をぼんやりと眺めていました。
稲の葉が風に靡く田園の中に立つ大きな旧家。ちょうど太陽が空の真上から少し落ちてきた昼下がりで、艶のかかった板張りの縁側を境目に、中庭は炎天の真っ白な光に包まれ、刈り込まれた低い垣根や水の枯れた鹿威し、檜皮色の太い松の木までが、皆暑さにしょげ返り、白州に並べられた罪人のように項垂れて見えました。
私のいる縁側の内はというと、年季の入った太い柱や、囲炉裏の煙に燻された梁の分厚い天井が、日光の暑さを防いで、厭に冷んやりとした空気が棚引いていました。
中庭の照り返しで差し込んでくる光も僅かなもので、外の世界が、床、天井、そして左右の障子戸で四角に区切られた景色は、大きなキャンバスに描かれた絵のように見え、薄暗がりの床の間に広がる冷涼な閉塞感と相まって、私は何か、今までの十二年間暮らしてきた世界から切り離され、全く別の空間に寝転んでいるような気持ちに襲われたのです。

しかし、今になって思い返せば、その不安定な感覚は、そこから不意に始まったある出来事に対するぼんやりとした予感や予兆のようなものだったのでしょう。
私はこれから、自分の身体と、心と、それから人生に、鋭く錆びた、途轍もなく大きな楔を打ち込まれ、その傷と生涯を共にしなくてはならないのだという事実を、うっすらと感じ取っていたのです。

仰向けで寝ていた背中がじんわりと汗ばんできたので、私は左肩を下にして横になり、両親が用事を済ませて帰ってくるのを引き続き待っていました。
すると、畳に近づけていた左の耳が、縁側の板を軋ませる足音が近づいてくるのを聴いたのです。
「優ちゃん」
足音の主が私の傾いた視界に入りました。従姉妹の、三つ年上の姉でした。
中庭を背にして、寝ている私の前に立っていたので、顔は暗くて表情がよく判りませんでしたが、全体的な姿勢のシルエットから、何か思い詰めたような、肚を決めたような強張りを感じ、その立ち姿に私は不気味な威圧感を覚えたのですが、ひとまず身を捩って、肘をつき、身体を起こしながら、
「どうしたの」
と尋ねました。すると姉は、ゆっくりとした足取りで私に近付き、私の腰辺りの傍に膝をついて、少し前屈みになって私の顔を見つめました。
「優ちゃんさ あたしのこと すき?」


後になって考えて解ったのですが、姉はきっと、自分の罪を正当化したかったが為に、あのような訊き方をしたのでしょう。玉虫色の言葉を巧く紡いで、全てが相手の責任になるような答えを、私に求めたのでしょう。
その罠に、私は捕らえられたのです。
「うん すきだよ」

自分の口から音になって発せられた言葉が、田舎の古家の、壁に、天井に、生活の永い歴史の澱が染み込んだ空間に木霊した時、その時。
頭の中で、これまでの漠然としていた不安感や違和感、恐ろしさが急速にまとまって凝縮され、確固とした一つの塊になりました。


「うん うん 優ちゃん あたしもね 優ちゃんが好き 大好き」
「ごめんね お父さんとお母さん帰ってこないね ごめんね 大好き」


素早く、梢の間を抜ける風のように滑らかな、それでいて有無を言わせない重量を持った動きで、姉は私の腿の上に跨り、十二歳の肉の薄い胸板に両手を突き、私を組み伏せました。シャツの上からではありましたが、長めに切り揃えた爪が鎖骨に突き立てられる痛みと、焼けた鉄のように熱い手のひらが肋骨を押さえつける感触に、息が詰まりました。

衣擦れの音や、興奮しきった姉の湿った呼吸。さっきまで軽く汗ばんでいただけの私の背からは、緊張や恐怖、言いようのない不快な高揚感のせいで、べったりと脂汗が吹き出しており、姉が動くたびに私の身体は床との間で少し滑っているようでした。
全てが終わるまで、私は姉を直視する事が出来ず、仰向けで首を逸らし、絵画のような縁側の景色をじっと凝視していました。すぐ上で姉が漏らす嬌声はいつしか遠のき、庭の木に留まっていたであろう油蝉が鳴く声の方がずっと鮮明に聴こえていました。
その時、今でも絵に描けるほどはっきり憶えている光景が一つだけあります。庭を仕切る低い垣根の向こうの細い道、そこに蛇が一匹死んでいました。通りかかった車に轢かれたのでしょう、緩やかな円を描くようにくねらせた身体は真っ平らに潰れ、車輪の圧力によって逃げ場を失った肉や内臓は一緒くたに挽かれて鱗を突き破り、捻じ曲がった曲線を薄い桃色に縁取っていました。
私の目は、人より抜きん出て良いという事もなく、床の間から前の道まではかなりの距離があった筈なのですが、眼玉や口が綯交ぜになるほどくしゃくしゃに崩れた蛇の顔貌までをも、細密に憶えています。よっぽど永い間、その死骸を見つめていたのでしょう。


本当に、あの蛇だけは、今でも絵に描けるほどはっきりと憶えています。

間節

それから私は、小学校を卒業し中学校に入学し、中学校を卒業し高校に入学し、高校を卒業して大学に入り、その大学をも、卒業を半年後に控えています。
あの夏の一件のその後は、よく憶えていません。姉は自分の罪がばれないよう巧く取り繕い、私も得体の知れない恐ろしさに睨まれ、その隠蔽を手伝ったような気がします。その甲斐あってか、あの事件は、今日まで両親には発覚していません。
しかし、心の奥に隠そうと押し込むほど、私の傷は大きく、深く心身を裂きにかかるのです。あの日の、あの死んだ蛇の映像と強く結びついて私にまとわりつく強い嫌悪感が一つあります。


「水」への恐怖です。

もっと細かく説明するなら、それは、生き物の、特に人間が出す「ぬめった水分」への嫌悪と憎悪です。私は「ぬめり」を何より恐れ、そして毒虫のように毛嫌いするようになりました。
恐らく、あの旧家の床の間で、古びた木材から染み出した瘴気が渦を巻いて凝結した塊、あれがその正体なのでしょう。姉に何もかもを貪られている最中に、あの澱は少しずつ私の中に流れ込んできたのです。


顔を背けた視界の隅にちらちらと入ってくる姉の、首に染み出した汗が蛞蝓のように細かな光の模様を描く様、苦悩と背徳的な快感に歪む口元を伝う唾液、汗で黒い筆のようにまとまった髪の毛先に溜まる雫、そして何より、前後させる腰に合わせて、音を立てながら交わる男陰と女陰。愛液が陰毛に絡まり、緩やかに泡立つ感触、炉のように滾る姉の蜜壺に無理矢理挿し込まれ、粘膜の密着と摩擦を求められる理不尽、不条理。
あの時の私は、およそ人が排泄しうる全ての液体に塗れていました。割れた茶碗に継ぎを施すように、八つ裂きに破壊された私の人格は、「ぬめり」への憤りと恐怖によって接着され、無理矢理に元の形へと戻されたのです。姉はそのような「改造」を私に施して、そうして去って行きました。

日々の生活は水に溢れています。私はその一々を恐怖しなくてはなりませんでした。
例えば飯時。私は汁気の多い食べ物をなるべく避けました。味噌汁が椀の底に少しでも残り、溜まって冷めているのが嫌でした。流し台の大桶に無造作に放り込まれた食器と、それを包む水が嫌でした。その中にご飯粒や、油揚や肉の切れ端、野菜の剥いた皮などが漂っていると、忽ちさっき食べたものを戻しそうになります。
洗面所を使った後、水飛沫が陶器の流しに飛び散っているのも見たくありません。手を洗い、顔を濯ぐ度に、念入りに布巾で隅々まで拭き上げました。
風呂はどうかというと、これは一概に身の毛をよだらせている訳ではありませんでした。真新しい、新鮮な水が、常に蛇口から溢れて来るからです。身体を一気に伝って足元へ落ち、排水口に吸われていく湯の中では、私は落ち着いていられるのです。しかし、湯上りに灯りを消した風呂場には慄きました。私の恐怖は、同じ場所に束の間でも放置され、すえた古い水に発生するのです。
夏という季節は、私にとっては憂鬱なものでした。雨上がりの温い水溜まりは、側に寄りたくもありませんでしたし、体育の授業で、タイル張りのプールサイドの凹みに溜まった水を思わず踏んでしまった時など、足指の皮の薄い部分から水が入りこみ、肉の内へと浸透する感覚を一瞬の内に想像し、陸上にも関わらず窒息しかけました。

そして、何より、人間の身体の内側に溜まる水の「ぬめり」には、心の底から凍りつくような思いを常に抱いています。唾、涙、汗、これらは総て私の精神に常に重圧をかけ、苛み立てるのでした。
笑顔を見せる他人の、細めた瞼に挟まれた眼球の光の反射に「ぬめり」の存在を感じ鳥肌を立てました。開かれた口から覗く濡れた前歯に飛び上がりそうになりました。高校の時、同級生の小鬢に汗が滲み、海藻のように揺らめいた形で顳顬に貼り付いていたのを見て、慌ててハンカチで拭き、その突飛な行動を訝しまれた事もありました。(私は、自分のこの屈辱的な性癖については誰にも口外していないのです。)
私は、人間を好きになる事が出来ませんでした。人を愛するということは、水を、「ぬめり」を愛するということです。
握手をすることですら、相手の掌に少しの湿り気でも感じると、私の心は忽ち硬い殻に覆われました。汗腺を通って、開いた毛穴から噴き出す汗を感じ、離した後でも、私と相手の手の間には真白な糸が、蜘蛛の巣のようにいつまで経っても棚引いているような感覚に襲われるのです。
掌にさえ鳥肌が立つのですから、当然接吻や抱擁などは無理難題でした。他人からの好意に応えたいと思った事は幾度かありましたが、その好意が、古寺の裏にある、藻の張った底の見えない荒れ池のような、体液の「ぬめり」に沈んでいるので、私には到底手にする事が出来ませんでした。

ここまで読んでいる方は気付きつつあると思うのですが、私は「ぬめり」に対する想像力が非常に強いのです。
大学の授業で種田山頭火について調べている時、句集の中に「へそが汗ためてゐる」という句を見つけ、その一文から伝わってくる臭いや蒸し暑さの汚穢に、図書室で小さく悲鳴を上げました。痰壷というものの存在を知った中学3年の秋は、全く受験勉強に身が入らなくなり、第一志望の高校に落ちかけたほどでした。
このように、実際に体験した「ぬめり」でなくても、私を半殺しの目に遭わせる事は容易かったのです。
それほどまでに厭なのなら、考えなければいいじゃないかと思うかもしれません。しかし、人は、私は、不鮮明な暗闇にほど目を凝らすものなのです。忘れる為には思い出さなくてはなりません、新しい土で覆い隠してしまうように、日々の記憶をなるべく多くして過ごしてみたこともありましたが、その新しい思い出にさえ「ぬめり」はべっとりと貼り付いているのです。
忘れようとする程に深く刻まれる怒りと恐怖に加え、また新たに積み重なる記憶。私の人生にしぶとく絡まり、その茎のあちこちで醜悪な花を咲かせる邪悪な蔦は、あの田舎の旧家の、床の間の畳の隙間から根を生やしているのでした。

そして、そう。私は、私自身の内にある「ぬめり」をも軽蔑していました。
当然です、この世界のあらゆる場所に水があり、生き物は水に生かされている。他の人間とどうしても分かり合えない私は、自分自身とも常に激しい反発を重ねていました。
汗、涙、唾液、鼻汁、血液、精液、排泄物。生理的な活動には、常に「ぬめり」の摂取と排泄が渦巻いています。私は特に「唾液」を恐れました。幸い花粉症体質ではありませんでしたし、汗もある程度気を遣って生活していれば何とかやり過ごせるのですが、口の中に溜まる唾の感触だけは、どうすることも出来ませんでした。
舌から滲み出た熱い涎が、少しずつ「ぬめり」を帯び、細かく泡立ち白濁する様を、思うまいとすればするほど鮮明に思い描くのです。その度に私はやおら立ち上がり、洗面所に走って口を濯がなくては落ち着きませんでした。
私は食事の際、努めて口を閉じ、音を立てないようにして食べます。もしも不意に口を開き、その時に「チャッ」と唾が弾ける音でも聴こえようものなら、何もかもお終いなのです。無論、他の人がものを食べる現場にはとても居合わせる事が出来ないので、私の食事はいつも一人で、無音でした。
言葉を喋る際にも私は細心の注意を払いました。話す内容をきちんと文章にまとめ、校正してから口にしました。なぜそんな事をする必要があるかと言われると、それは私が「湿った発音」を嫌うからです。
破裂音、「パ行」と「バ行」を、私は口に出さないようにしています。唇を固く閉じてから、不意にそれを弾くように発声しなければならず、その時に唾が飛ぶ様子が、耐えられないのです。「ラ行」もなるべく避けます。舌が口腔で動き回り、自然に唾が排出されるからです。他の行の音に関しても、私は母音を強めて発音し、子音が控えめになる為、歯の抜けた老人のような話し方にならざるを得ませんでした。そうまでしなくては、私は人前で喋る事が出来なかったのです。

私は、恐らく、長生きは出来ません。
至極当然の事でしょう、「ぬめり」を否定する事は、人間である事、延いては、生き物である事までもを否定する事だからです。
何もかもを避け、そうした生活の底で心身共に疲れ切り、思考力が限界に達した時でしか、私は「ぬめり」に寛容になる事が出来ませんでした。自身の内部に滞留する、腐った水分の汚濁を、どうしても赦す事が出来ませんでした。
自殺しようかと、そう思った時期も度々ありました。しかし無理だったのです。例えば手っ取り早く首でも括ろうと思い立ちます、薬を飲むのもいいでしょう、拳銃でも手に入れば尚の事踏ん切りがつきます。
しかし、そう、そうして死んだ後、あるいは死ぬ間際、私は大量の「ぬめり」を感じなくてはなりません。首に食い込んだ縄の下で、必死に脳へ血液を送ろうとする湿った拍動を、多量の錠剤を嚥下した後の胃の蠢きを、顳顬を撃ち抜いた後の、飛び散った血や脳漿に塗れて倒れ臥す自分を、その刹那想像します。そして、死ぬ事すら出来ないのです。
真っ当に生きる事は許されず、それでいて死への門をも堅く閉ざされた私は、どちらにも辿り着けない「宙ぶらりん」の状態で、ここ十年間を生きて来ました。


きっとそのうちに、私の「ぬめり」への屈辱ーひいては「命」への怒りは、あの姉が施していった、私の精神の継ぎ目を白熱させて融かし、積み重なった破片が作る伽藍堂の暗闇に私自身を閉じ込めるでしょう。

もう早いところ、いっその事そうなってくれと思っていました。


あの時が来るまでは。

脱節

私が二十二歳、大学四年生の時の出来事です。

私の通っていた大学は、自然のあまり無い小さな街の片隅にありました。
山でも登るような、不自然に曲がりくねった道に囲まれ、校門前のバス停を降りると、正面に大きな茅色のホール、その二階を鉄筋の通路が繋いだ両脇に、正面のものに比べると一回り小さな白銅色校舎が一棟ずつ、鉄筋通路は中空ですから、その下を通って裏に回ると、さらに小さな校舎や実験所、図書館などがあります。
なるべく木の少ない場所を選びました。植物の内側の「ぬめり」に怯えながらでは、良い学生生活は送れないと考えたからです。池や噴水のある大学は、まず志望候補から外しました。

志望、そう言っても、私の志望ではありません。両親の安心と夢の為の志望です。
自分の人生は、私にとっては既にもう、何がどうでも良いような状態だったのです。周囲に居る人間への慚愧と、言いようのない居心地の悪さが、私から自己決定の意思を剥奪して行きました。いや、生まれた時から私には、そんな大層なものは無かったのかもしれません。
とにかく、これからずっと私は、母と父の願望を叶える為の奴隷となり、鉛色の生活を繰り返す毎日の中で、不意な事故や事件でにべもなく死ぬのでしょう。私がどんなに「ぬめり」に塗れて死んでいくのが嫌だと言っても、それが摂理なのだと、容赦なく運命は私の最期を打ち捨てるのでしょう。

そんな事を考えながら、私は四年生最初の、ある教養科目の授業へ出席しました。
大学の教室は落ち着きます。コンクリートと鉄筋、それにプラスチックと硝子が支配する箱の中で、静かに思考を組み上げて教授の話を聞いていれば良いのですから。私は前の扉から教室へ入り、伏せ目になって足早に一番前の席へ着きました。
学習意欲が特別あるから、先頭に座った訳ではありません。私は、他の学生の後ろ姿を見るのが嫌なのです。人間は「ぬめり」の塊です。
かと言って、一番前だと、今度は教授の顔や身体を至近距離で眺める事になります。しかし仕方ありません。これは私の苦渋の策だったのです。

時間がやって来て、教室の扉が開き、後ろから聞こえていた世間話の喧騒がはたと止みました。私は俯いた顔をゆっくりと擡げます。

まず目に入ったのは、草臥れた黒の革靴でした。爪先で折れ曲がる部分には硬い皺が入り、その溝は軽く粉を吹いていたような気がします。
そして次に、市紅茶にくすみをかけた色合いのスラックスの裾、私は視線を上にやります。勝色のベルトのバックルがちらっと見えたかと思えば、それをすぐに亜麻色のジャケットが隠しました。その分厚い生地の谷目から伸びた木槿色のネクタイが引き締めるワイシャツの襟を目にする時には、既に私の視界には、その方の顔貌までが入っていました。

それから暫く月日が経ちました。
私は、相変わらず、最前列の席で授業を受けていました。但し、その方の顔を、私は食い入るように見つめながら話を聞いていたのです。それは他の授業での私では考えられないような事でした。
その方 ー私が出会った教養科目の或る教授ー は、齢67に差し掛かろうという男性でした。結論から言いましょう。あの初日の授業の時、地味な色合いの衣服に身を包んだ、老齢のその方に、私はある「希望」を感じたのです。

というのも、その方には、「ぬめり」が無かったのです。

夏でもきちんと折り目の正しい衣類を着て、その端から覗く手足は、まるで古びた和紙のような皺に覆われていました。
干魃に果てた大地の、あの不規則な網目状に罅が入った土のようでした。首周りも、無論顔面でもそれは同じでした。元より彫りが深いであろう顔立ちは、固めた麻布でも貼り付けたような堅牢な皺に覆われ、迫り出した額によって眼窩は完全に闇の中に埋もれていました。皮膚は光の反射を知らず、脂汗に濡れている所など見たこともありませんでした。口元は両端で硬く結ばれ、唇は薄く、精悍な佇まいを見せ、その内側に溜まっているであろう唾液の存在を感じさせませんでした。喋る際も、その方はあまり口を開けず、また発声も、実に冷たい、墓石のような静けさと清涼感に満ちていました。
私はその教授に希望を見出しました。彼を通じて、人間の、生き物への信頼と好意を取り戻し、同時に「ぬめり」への抵抗を試みようと、最後の力を振り絞る覚悟を決めたのです。

私はその授業で最も熱心な学生でした。彼からはそのように見えていたのでしょう。正直、授業で教えられる内容にはさほど興味が湧きませんでしたが、教授の風貌や所作を少しでも細かく、多く観察したいが為に、最前列へ陣取り、彼の方を向いて話を聴いていました。教授がそのような学生に好感触を持つのは、往々にしてある事でしょう。あるレポートの提出の折、彼の方から私は話しかけられ、そして言葉を交わしながら少しずつ親しくなりました。私としても、それは好都合な事で、研究室に招かれ、時には事務作業を手伝う間柄にもなりました。その間も教授は、私の希望を裏切らない佇まいで居てくれました。二人きりでいる時でさえも、彼の清潔な乾燥は崩される事はなかったのです。
ああ、こんな人がこの世界に居たんだ。私は運が悪かっただけなのだ。巡り合わせの不具、ただそれだけの事で、あんなにも深く絶望し、命そのものを憎悪し、自分の存在さえ怒りと煩わしさの種にしかならない。そんな日々の苦痛を更新し続けていたのだなんて。

これまでの辛酸に浸されていた分、私の舌はその僅かな蜜の甘味を味蕾で何倍にも増幅しました。学校へと急ぐ道では、歩く速度に合わせて躍り出しそうになるほどでした。
そんな幸せに浸っていたのは、ちょうど秋の盛り。金木犀の芳香が路地を吹き抜ける時期でした。
私は全く冷静さを欠いていました。やっと巡り合った僥倖とステップを踏むのに夢中で、咲いた花はいつか枯れる、そんな当然の事すら、すっかり忘却してしまっていたのです。

ある夜中。降り注いだ雨が、枝を揺らし葉を叩き、曇り空がうっすらと白んできた路地のアスファルトに橙色の小さな花弁が絨毯のように敷き詰められ、その香りも雨脚に流されてしまった。そんな風に突然の終わりを告げた秋の名残を惜しむ間もなく、耳たぶを裂くような北風に急かされて、街が冬に片足を突っ込んだ頃。私は教授に思いも寄らない事を告げられました。

「来年の桜を、私は見られないかもしれない。」

大学の表通りを歩きながら、いきなり叩きつけられた言葉の重みに、私はよろけ込み、石畳に左の掌をついてしまいました。
彼は冗談でそんな事をいう性格ではありませんでしたから、恐らく真実なのでしょう。地面から起き上がり、ゆっくりと歩みを再開する教授の靴音に慌てて続きました。
どういう事か、問い質す私に、教授はゆっくりと言葉を紡ぎました。

詳しく説明は出来ないが、もう自分の身体は病に冒され、大学での勤務どころか日常の生活もままならない。ここ数年無理をして続けた授業も、もう今年度いっぱいで退任する。そしてその時、学問に身を窶す事を何もかもの支えにしてきた私の人生はあっという間に燃え尽きるだろう。幸い私には、病の身でありながら教授を続ける事を咎める身内も居ないし、死んで悲しむ者も居ない。わがままをやって、余生をつまらない希望探しに注ぎ込む事なく、絶頂のままこの世を去る事に決めたのだ。

強がりなどでも、諦観などでもなく。ある種の柔らかな展望と安らぎのような心持ちを含んだ声色で、彼はそう語りました。

哀しみや絶望、憤りや吃驚。あらゆる感情を一跨ぎに超え、それは不安定な動悸を孕んだ痛みのような感覚として、私の身体を駆け巡りました。鈍色の閃光が網膜で炸裂し、眉間に収束して鼻へと落下すると、今度は耐え難いような焦げ臭さへと変わり、硬い痺れに包まれて頬の上を通って耳の軟骨に吸い込まれると、脳が豆腐のように崩れるような不快な金切音になって、私の全身に吸い込まれて行きました。
私の心を保っていた継ぎが、あと一呼吸の身体の膨らみに耐え切れず弾けてしまうような気がして、私は口を堅くつぐみ、そのまま黙ってしまいました。
教授はそんな真っ赤な顔の私を見て、少しばつが悪そうな顔をして、でもまぁ、そういう事なんだ。と、ただそれだけ行って、大学バス停前の歩行者信号が青になると同時に、私から離れて行きました。

その日から1週間ほど、私は嵐の中にいるような生活をしました。
なぜ、そんな。やはり私が悪かったのか。運命に逆らって幸せを手にしようとする事は冒涜なのか。いや、何に対しての冒涜か。私の人生は私のものだ、傲慢で何が悪い。けれど、だが、しかし。どうして、やっぱり。
神様がいるのなら、私はその悪趣味を糾弾したい。人の不幸は蜜の味か、しからば貴方はやはり張りぼての人形だ。人心が作った卑猥な偶像だ。
教授への怒りも私の心を埋め尽くしました。なぜ貴方は私の人生に立ちはだかったのか。教壇に立ち、私に希望を教え、そして最終課題で掌を返して落第通知を叩きつける。そうまでして人が苦しみに歪む顔を見たいのか、それを最後に見て、それで死にたいと曰うか。


死んで悲しむ者は居ない?

ここに居る。
貴方がこの世界に存在する事だけが全ての支えになっている私が居る。

光。




窓の隙間から漏れ込んできていた朝日が、六畳のワンルームのフローリングを柔らかく照らし、その板目に付いた傷や凹み、ホコリを、私の腫れた目にもくっきりと見せていました。

いつの間にか床で寝ていたようでした。痛む肩、背中、腰を気遣いながら起き上がり、鉛を流し込まれたような頭を掻き毟って、ありがたくもない陽光を自暴自棄に浴びようと、4年間掛けっぱなしのカーテンの端を掴んだ時。


ある一つの答えが、不意に心の水面に小さな波を立てて浮き上がりました。

感情があまりにも累積し、濁流のように何もかもを押し流してしまっていたが為に、見えなかった答え。
喜怒哀楽、言葉で形を与えられたあらゆる心を、全ては持ち切れず、次々と火に焼べて、全てを燃やし尽くしたが故に、最後に掌に残った答え。

そうか。そういう事だったのか。
熟れた柿のように重い瞼を押し分けて、あれだけ泣いたのに、懲りずに流れ出す涙を拭ってから、私はカーテンを一息に開け放ちました。

結節

あれから三年が経ちました。

私は大学を卒業した後、介護士の資格を取り、実家の近くにあるケアホームで仕事をしています。
私が希望とした、あの教授は、もうこの世には居ません。年明けの三月に教授職を退き。予言通り、桜が咲く前に、一人暮らしの自宅の布団で、ひっそりと亡くなっていたそうです。
彼はやはり、最後まで自分の職務を全うしました。私に、私がこの先の人生を生きていける答えを授けて、旅立ったのです。

彼の、あの「ぬめり」の存在しなさ。あの乾きは「自分の死期を悟った生き物」だけに宿る。ある境地に於いて発生するものなのだと、私は考えました。
少しずつ命の残量が無くなっていく、それは悲しい事ではありますが、それと反比例して輝き始める、乾きの煌めきに包まれている時、私は私の姿を肯定出来るのです。老人たちに囲まれて過ごせる仕事として介護士を目指したのはそういった経緯です。初めて自分の意思で、自分の傲慢で行動を結果に繋げることが出来ました。
相変わらず「ぬめり」の影は生活のそこかしこに覗いていますが、前よりは、さほど気にならなくなりました。

これが、ここ十年間の全てです。

話は変わりますが、明日は、私の二十六歳の誕生日です。

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