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僕らの偉大なる「平熱」のために


僕にとって、幸せとは「平熱」だ。
平熱は気づかれない。日々の些事に埋もれて、身体の奥底で半分寝ぼけたような顔をして、しかし熟練のジャズドラマーのように、その気怠いリズムを崩すことはない。

平熱とは安心と平和を作り出す。
厳密に言えば、平熱が安心(個人)を作り、安心が平和(社会)を作る。
退屈だと眉をしかめられることは贅沢だ。
Lサイズのピザを鏡合わせに2枚くっつけて、手が汚れる心配が無くなったからとそれをむんずと掴み、円盤投げの要領で浜に思いっきり投げ飛ばし、チーズやサラミを撒き散らしながら元の一枚と一枚になって落下し、それをカニがつまみ出すのを笑いながら見ている金曜の夕方よりも贅沢だ。
なんだその変な喩え、長いしつまんねーよ。

平熱の表情は真顔だ。
真顔とは僕にとって、信頼と安心の証明だ。気を遣って笑わなくても殴られる心配がない。
モネの「日傘を差す女」のような、風の吹く小高い丘の上で、ポケットに手を突っ込んだまま、横顔同士で見つめ合いながら、他愛もない話をする。ちぎれ雲が東から西へ、少しずつ夕暮れになりつつある秋の午後を、二人でそうやって過ごす。
そんな日常の延長線上にある壮大さに、平熱はしたり顔で宿っている。

平熱は熱狂しないわけではない。
人生は一枚の折り紙で出来た鶴だ。元々山も谷もない、平坦なパルプの地平線があるだけだ。僕らはその上を歩く一匹の蟻だから、折り鶴の尖った羽や首の向こうが見えずに、不安と楽しみに駆り立てられ、歩を進める。
たとえ大きな希望や絶望に踊らされ、自分が自分じゃなくなりそうな気がしても、平熱は平熱の範囲で沸騰するだけだ。決してその高温でプリオンを凝固させてしまうような事はしない。嵐が行き過ぎれば、また元の平熱に戻るだけだ。
心当たりがない?風邪をひいたって、君の平熱はいつも不思議に、元の穏やかさに戻るじゃんか。

平熱とは…
あぁもう、疲れた。
東京から帰ってくる新幹線の中で書き出したnoteに、結びまで綴り切るだけの燃料を積むスペースなんてそもそも無いのだ。
ピザがどうとか、カニの金曜日がなんたらとか書き終わった段階で飽きてたし、なんなら恥ずかしくて後悔するのも億劫になってた。
でもまぁ、公開することにした。いいじゃないか別に、
こんな文章に価値なんか無い、価値なんか無いと言い張れば、どんな物からも価値を失えてしまえるのが、人間のいいところだ。
価値がなければ別にどこに置いてあったって構わない。飲み終わって、中に丸めたティッシュを入れてくしゃくしゃに折り曲げた紙コップぐらい、どこでどうなろうが知ったこっちゃない。
だからここに置いとく、洗面台の雫を拭くのにでも使えばいい。

そうやって放り出してしまっても大丈夫なくらい、平熱は当たり前で壮大なんだ。

おわり

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