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僕のそばで落とし物をするな

僕のそばで落とし物をするな。
変なストーリーを作られるから。

高校生の時。
家から遠い高校に通っていたので、毎日電車通学をしていた。
ある日の帰り道、家の最寄駅で降りた時だった。同じタイミングで降りた年上のお姉さんが、改札へ行く途中の通路で手提げバッグから、紙きれを一枚、はらりと落とした。
ちょうど後ろを歩いていたので拾ってみると、それは楽譜だった。なんていう曲名だったかは覚えてないけど、すぐさま、前を歩くお姉さんの肩を叩いてそれを返した。
出来事としてはたったそれだけなのだが、その要所要所に挟まっている情報が、僕にストーリーを作らせる。

落とした楽譜は、多分お姉さんのもので、他の誰かのものを預かっていた訳ではないと思う。手提げバッグが音符や楽器の柄だったし、きっとオーケストラかバンドで演奏しているのか、趣味で音楽をやっている人なんだと思う。
そして、手提げバッグにしっかり入っている(推測だが)はずの楽譜を、一枚だけ間違えて落とす確率の低さと、「落としましたよ」と渡した時に、振り返って僕を見た彼女の顔つきの戸惑い具合、曇り方から察するに、
「わざと落として立ち去ろうとした」ような気がしてならないのだ。

どうしてそんな事をするのか、楽譜を手元に置いておきたくなかったから、それは即ち、もうこんな曲を演奏したくなかったから?
仲間とのいざこざか、または自分の個人的な思いか、それなりに努力して続けてきた音楽に限界を感じ、夢や目標を諦めるのか、それとも…
列車の中での彼女の逡巡は、車輪の速度が落ちると共に暗澹としたものに包まれていった。もう辞めよう、でも、ゆっくりと譜面を見ながら、自分の部屋のゴミ箱に捨てるだけの覚悟と勇気は無い。
そうだ、この駅でうっかり落として失くしてしまった事にしよう。
誰にも拾われることなく、ホームに吹く風に舞い、茂みや水路に落ちて、そのまま朽ちていく。それでいい、それがいい。
周りの人に気取られぬように、手提げバッグから少しずつ楽譜を出し、目線は前を向けたまま、指で最後の人押し、バッグの縁から飛び立った譜面は夕日を柔らかく反射しながら、音もなく着陸したようだ。
これでいい、これがいい。所詮私の夢だってー

「あの、これ…落としましたよ。」

その後、お姉さんがどうしたのかは、僕は知らない。
何とも言えない複雑な表情を浮かべ、「あ…ありがとうございます」と戸惑った声色で楽譜を受け取った彼女は。音楽を続けているのだろうか。
僕のした事は、あの人にとって果たして善い行いと呼べるものだったのか、夢に縛られる苦しみをよく知っている身としては、今もたまに思い出して悩むところである。
いやまぁ、大半が僕の妄想なので、全然どうということのない、ただうっかり落としただけの可能性の方が大きいんだけど。
そんなわけで、
僕のそばで落とし物をするな。
こんなストーリーを作られるから。

2022.05,05 


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