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牛歩の信仰、ささげもの

 私の信仰は牛歩の如き進み方をしている。性格的におっとりしているからだと思う。ゆっくり、のっそりとしか進まない私の信仰生活は、見る人によっては苛立ちと腹立たしさを起こしてしまいそうだ。しかし、私はそのようにしか進めないのだから仕方ない。まぁそれに、人の心の中を想像したって当たっていることはそうないだろうし、良いことなんて実質的に少なすぎるというものだろうからあまりに気にしない。それでも気になってしまうというのも人情なんだけど。

 せかせか急いでみようという気が起こることもある。しかし、私は基本的に急いだり慌てたりしてしまうと全てがダメになる人間らしいのだ。世の中には大小関わらず、慌てて何かを為しても成功する人というのはそこそこいるものだと思う。でも私はそういうタイプではないのだ。一度焦ってしまえば、その後の行動は全てが裏目に出て何がしかを間違え、失敗していく。
 だから、私は強いて焦ることを避けている。

その日のQT

 その日の神様との語り合いの時間はトイレの中で行われた。というのもそこが一番落ち着く場所だからである。家の中で、他に人が居る時でも居ない時でも、ここが一番落ち着くのだからしょうがない。そして「落ち着く」ということは、神様とお話しするために一番重要なことなんだから!

 その時に神様が語ってくださったことが、「牛歩の信仰」ということだった。
 曰く、私の信仰は牛歩のようなもので、神様ご自身はそれを分かっているし、それをちゃんと喜んでくれているということらしい。

 聖書の中にイエス様のこんな言葉がある。

 後の者が先になり、先の者が後になります。
マタイの福音書 20:16

 私は昔からこの御言葉に心をとめていた。そしてこうも思っていた。「私はきっと、私の後からこの教会に来る人たちの信仰(心)に先を越されていくだろう」と、15歳の時だった。その時から私は、自分が良くも悪くもノロマな人間である自覚があった。今その自覚はより強固なものとなっている。

 そして、それから8年経ってもやっぱり私の歩みは鈍間で、私の先を行く人が増えている。

 それを悲観するつもりは全くない。それは8年前も今も変わらない。だって私は私。急いだって、慌てたって、焦ったって何も良いことはない。少なくとも私にとってはそれが事実。
 強く固い信仰を持っている人を見ることは心地良いし、気分が良い。増してそれが同じ教会の兄弟姉妹なのだから嬉しいに決まっている。

 それでも周囲の人を見て、自分を見返して、落ち込んでしまうこともある。その時間が短ければ短いほど、何より人よりも神様を見る時間が長ければ長いほど良いので、ぜひそうしていきたいなと常に思う。

牛のようなささげもの

 牛歩のように遅く鈍間な私が、それでもゆっくり、もったり、ちまちまと進みながら神様の元へと携えて行こうとしているささげものがちゃんとあるらしい。神様曰く、それは牛のように大きくて重いものなんだと。
 大きな大きな、重たぁい荷物を持って、何なら引きずったり、必死に押しやったりしながら、私はのっそりのっそりと神様に近づいて行こうと、日々歩み続けている。神様の目にはそう写っていてくれるらしい。なんてありがたいことだろう!

 時には立ち止まって、というか人よりはきっと多い回数立ち止まっていることだろうけど、周囲の景色や人々を見回しながら、ゆっくり進んでいく私の信仰の道のり。人の目には決して華々しかったり、勇ましいようには見えないだろうけれど、それでも私は神様に認められて、ゆっくりのんびりと進むことができている。

 これからも、ゆっくりでも、しっかりと一歩ずつを大切に愛おしみながら歩んでいけたら良いなぁと思ったひと時だった。


2022/12/27

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