イスラエルの初代王サウルの死
イスラエルの初代の王は、民が彼らの神ご自身の統治を拒み、周辺諸国に倣って人間の王による統治を望んだことによりその王位が据えられたものである。神は民の不遜な訴えにもかかわらず、油注いで一人の人をご自身の代わりとして選ばれた。しかしその選ばれた人サウルは、その初めこそ信仰の篤い人のように思われたが、道半ばから神の御心から逸れた自分勝手な王となってしまった。
そこで神は、サウルに代わる、神を信頼しきっていて信仰に篤く、何よりもまず神を愛し、神の声に従い通すであろう王をあらためて選ぶことにした。それがキリスト教に疎い日本人でもその名を一度は聞いたことがありそうな、かの有名なダビデ王なのである。
余談だが、サウルは勇士然としたいかにもカッコイイ見た目をしていたらしい。対してダビデは、彼が選ばれたその時にはまだか弱そうな少年であり、卑しい仕事とされていた羊飼いをしていた。しかしその羊飼いの仕事こそ、後から見ればダビデの信仰を鍛え上げるに相応しい仕事であったようだ。
神は悔いるのか
冒頭に掲げた聖句が記されている記事に冠されている名、サムエル。彼はサウルとダビデに油を注いだ祭司である。「油を注ぐ」とは、文字通り香油をその頭に垂らす行為であり、その意味するところは「神が選んだことの証」である。サムエルはサウルの神への信仰がなくなっていることを知ったのち神に命じられてダビデの元へ赴き、それがサウルの耳に入って不興を買わぬように、内内に油を注いだのであった。
サムエルは、サウルが神の命令に背いたこと、それを指摘されてもサウルがそのことで心から反省しようとしないことを知った時、サウルが王座から降ろされることを宣言したのち、こう述べている。しかしその後の聖句にはこうある。
「イスラエルの栄光である方」「主(しゅ)」とは、それぞれ神を指している。神は悔いることのない方なのだとサムエルは念押すように語ったが、しかし主はサムエルを王にしたことを悔いたのだとこの記事には書かれている。
もしかするとサムエルは、サウルに油を注いだことの責任の重さと悲しさを自分一人で負ってしまいたいという思いがあったのかもしれない。サウルを王にすることが神ご自身の判断と選びであったことはサムエルも重々承知していたはずではあるが、その結果の悲しみや悔しさを神に押しつけ、負わせるわけにいかない、そうはしたくない、というようなサムエルの神に対する愛する思いの現れのように思えるのだ。
サウルの死
しかして、サウルが王座を失うことは神とその仲介者サムエルによって確約され、サウルは戦いの最中死んでいくこととなる。その場には王の息子たちや支持者たちもいたが、彼らサウルに属する者たちは一様に死んでしまう。戦いに敗するのだ。
この場面を読んでいて私が思ったのは、このあまりに惨めな敗戦がダビデのためであるのだろうということだった。
サウルの息子の一人である王子ヨナタンは、ダビデと強い友情で結ばれていて、ダビデのことが大好きだった。そんな彼も父サウルと一緒に死んでしまったということは、私にとっては聖書を読んでいく中で1、2を争うくらいにショッキングなストーリーの一つだ。せめてヨナタンくらい生き抜いてほしかった。彼なら王となったダビデを非常に良く支える右腕となれただろうにと思わずにはいられない。
しかしヨナタンが生き残っていれば、サウルと同じく神を真に愛しきれてはいない民たちはきっと、前王の血を引くヨナタンを王にしようとするだろう。彼が望むと望まないとにかかわらず、それを画策する者はきっと出て来ただろうと考えられる。民の中には、神直々のご指名を尊重しない人たちが少なからずいたに違いないのだ。また、サウルの戦友たちが生き残っていればなおさらそうしたであろうし、彼らの中から王になろうとする者が現れないとも限らない。人間の欲や野心とは、そのようなものだろうと簡単に想像することができる。
少なくとも、最初にこのストーリーを読んだ時にはここまで思い至らなかったけれど、私は今やそのような想像をすることができる。
神とて、自ら選んだサウルを死に追いやりたくはなかっただろう。神は愛のお方だ。旧約聖書を読んでいると戦争の記事ばかり載っていて、そう思うのが難しい点があるのは理解できるけれど。それでもやっぱり、神は人間を愛している方なのである。
サウルの直接の死因は自ら剣の刃の上に倒れるという自死であった。そうではなく、神の選びであるダビデに、素直に、潔く、その王権を譲るというストーリーが展開されることもあるいは不可能ではなかっただろう。むしろ神はそちらこそを望んだだろう。しかしサウルの頭には、そんなストーリーは微塵も思い描けなかったのかもしれない。せめて彼に、あと僅かにでも信仰が、神の声を聴く知恵があれば・・・歴史は変わっていたに違いない。
ダビデは、その子孫にイエス・キリストを持つ。
ほんの少しの信仰で、あるいはサウルがそうなっていたかもしれない。
いやはや。今を生きる私たちとて、ほんの少しの信仰で、あるいはとんでもない未来をもたらすことになるのかもしれない。
未来も神のご計画も、私たちにはその詳細を知ることはできないけれど、希望を持って歩んで行くことはできる。
ほんの少しの信仰を、もう少し、あと少しと育んでいけたら良いなと思う。
2022/12/28
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