しつこく行法の話

 どの行法が自分に合うかという事は実は見極めるのがかなり難しい。難しすぎると言ってもいいと思う。
 色々な徴候というか兆しというか、そういうものを運良く(注意深くではない)というか、因縁的に拾っていった先にその判断が現れるので、そう簡単には決められない。
 かと言って「では、徹底的な観察と熟慮の果てにその判断が出てくるのか?」と質問されたとしたならば「それはない」とはっきり言える。
 言えてしまうところがまた問題で、要するに「わかるときはわかるし、わからんときはわからん」しかも「自分の判断が間違っていることも大いにあり得る」という代物なのだ。これが。
 簡単には決められないと書きつつ、ではその行法が自分に合うのかどうか猛烈に思考し、テストしなければいけないのかと言うと、そうではないというわけなのだ。
 ぶっちゃけ何が正しいかは状況が決めることであって自分が決めることではないのだが、それはさて措き、変化というか変転というか、とにかく状況が変わるのは相転移なので、そこには断絶がある。
 そして断絶があるって言うのは「別の系に」属しているってことなのだ。
 どういう事かと言うと「世界が違う」というか何というか……とにかくそれまでとは全く違った状態の中にいきなり放り込まれて、そこでハッと気付くみたいな感じになる。
 以前見たマンガで殴り倒されたか何かした主人公が、一瞬クリックアウトして何とか立ち上がったもののまだ朦朧としている。
 それが「(今まさに自分が)戦ってんじゃん!」とハッと立ちなおるシーンがあったけれど、まさにそんな感じ。
 わかっている自分に後から気付くというか、いつの間にか道を歩いている自分に後から気付くというか、そんな感じになる。
 この事は時間についての面白い内容を含んでいるのだけれど、それは又別のnoteで書こうと思うので、今は行法見極めについての話を続ける。
 つまり自分に合致した行法をやっていくと必ずこうした不可思議というか、徹底的に自分自身だけの、つまり自分以外の人間が一切関与し得ない孤立化した内面世界の驚くべき変容とでも言うべき妙な世界へ迷い込んでいる自分に、ある時、ある瞬間、いきなり気付くことになる。
 もう少し言葉を減らして書くと(その分情報量も減るが)「自分だけの世界で、旅の途上にある自分を発見する」状態になる。
 もちろんそれでもその行法が正しいかどうかなどわからない。わかっているのは自分が旅の途上にあるということだけだ。
 行法を続けて行く中で啓示というか、直感というか直観というか、そんなものに出会うことが出てくる。
 我らスープランドで暮らす人間の宿命上、それを解釈する段階で必ず間違いが起きる可能性が生じてくる。啓示は間違わない(というか正解不正解という区分け自体が無い)。間違えるのは常に人間の側だ。
 そして、これが重要なのだが、間違えるという事自体の中に「証拠」とか「根拠」という考え方というか、発想法が含まれている。
 証拠を求めるという心の動きというか、願いというか、欲求は、それが存在する時点で「選択に間違う可能性が出てきてしまう」という事だ。
 この事と関連した話を少し書こう。
 ダンテス・ダイジの講話だけれど、その中で「天国を求める人の前には必ず悪魔が現れる」と言っているものがある。
「天国を求めて修行している人の前には必ず悪魔が立ちはだかる」とも言っている。
 そして修行者が全てを「理解」したときどうなるか?

「悪魔よ去れ」

 その言葉がまさに全てとして、そう「全てとして」出てくる。
 その時、修行者は悪魔こそが最大の協力者であり、動因であり、相転移の切っ掛けであったと悟るのだ。
 流石というか何というか、もう最高だとしか言いようが無い講話なんだけれど、簡単に説明すると、何というか……概念というか価値の方向へエネルギーを向けると、それは円の中心から離れていく行為なので必ず方向性を持ってしまうことになる。
 この「方向性を持つ」という事が問題で、我々が向かいたいのは円の中心なわけ。
 だから中心に向かうように心掛けなければいけないわけだ。
 ……わかりにくいかも知れない。もっと判りやすく書ければと私も思うが、国語力が足りない所為でどうにも上手く書けないのがもどかしい。
 とにかくその意味で「根拠」や「証拠」を求めない方がいいのだ。
 ただし、何故そうなのか? を理解していなければならない。
 ところが世の覚者達は「疑うな。信じろ」とか超圧縮された結論だけを言う。
 そしてそれが誤解やグルイズムへと結び付いて毒の花を咲かせるわけだ。
 だから「正しさを求める限り間違いが付いて回るからだ」という、その理由を踏まえておく必要がある。
 何の行法が自分を到達地へと、目的の場所へと導いてくれるのか? 当然それは思う。当然それは願う。私だってそうだったし、私の友人にもそう願う人がいる。
 特にタイムリープ(これについてもまた機会を改めて書くつもり)など考える人は、例えるなら自宅が燃えているようなものなので、とにかく外に出なければならない状態にある。
 のんびり玄関から出て行けるような状況ではないのだ。緊急避難なわけで、生きるか死ぬかの瀬戸際にいると言ってもいいと思う。
 そんな状況で細かく考えている余裕なんかないし、それよりもとにかく窓を蹴破ってでも飛び出すことが必要になるわけだ。
 けれどこれは「考えるよりも行動!」とか、とにかく選択を素早く、決断主義で行けという事ではないのだ。
 そうではない。慎重さは重要だ。熟考も出来るならばもちろんした方がいい。
 情報はできる限り集めて、考えられるだけ考えた方がいい。
 行を積もうが祭祀をやろうが、熟考無くしては全く無駄だとシャンカラだって言っている。
 まあ流派の特性上「とにかく考えろ」とシャンカラは言うのだが、それはジュニャーナ・ヨーガの人だからというのもある。
 でも「考えればそれで正解に至れる」というわけではないのだ。
 では「考えずに即断即決なら正解に至れる」のか? 答えはノーだ。
 それでは「正解は向こうからやって来るから正解をそもそも求めない方がいい」のか?
 これはかなり筋がいい考え方だ。この立場の何が最も良いかというと、正解を求めていないので間違うこともないという点だ。
 けれど本人は正解も不正解もわからないかも知れないけれど、端から見ていて明らかに失敗しているというような場合はどうなのだ? という疑問は当然あって然るべきだと思う。
 ところがこれはやはりここまで書いてきた理由により、見当外れな疑問なのだ。
 問題なのは本人がどう思っているか、どう感じているかであって、別の系に属する他人がそれを推し量れば全く別の話になってしまう。
 そうは言っても「あの人、騙されてるよね」というのは確かにある。確かにあるが、今回のnoteで問題にしたいのは、その騙されてる本人が何をやって目的に近付いていくかという話なのだ。
 世の中には気功のハウツー本で化け物みたいな能力を手に入れた人もいるし、ブルース・リーの映画から入ってアクションスターや武術の達人になった人もいる。
 私が直接知っている話でも、知人のそのまた知っている人という程度の人物ではあるが、明らかにインチキを掴んでいながら大成した人がいる。
 その人は仕事も辞めて貯金で食い繋ぎながら死ぬ気で行をやったわけだけれど、とんでもない遣い手になった。
 何かと物議を醸すと思うのでその逸話はここでは書かないけれど。
 そういう人達に向かって「ブルース・リーは映画俳優であって武術家じゃありませんよ」とか言っても喧嘩になるだけで意味が無いし、現に目の前に大成した信者がいるという事実もこれまた動かない。そもそもブルース・リーが俳優なのか武術家なのかについては意見が分かれているわけだけれども。
 別の例えにしよう。昔のマンガでゲームセンターが舞台のものがあった。
 その中に「炎のコマ」という技が出てくるのだが、それを本気になって練習したかどうか。そのセンスが重要(笑)
 子供だったからとかそういうコメントは無しで。
 知人に「かめはめ波は練習しなかったけれど、炎のコマと烈舞硬殺指は練習したな」という人がいる。
 これを馬鹿とか鈍感と言うのではなしに、何と言うのか……。
 正解を求めずに、ただ到達だけを求めてやってみる力? とでも言うべき感性というか、実行力というか……。
 まあそれでもその「練習する」「練習しない」の分れ目は何だろう? その違いはどこにあるのかと私などは考えてしまうわけだが(笑)
 だから、大事なのは何を掴むかという事なのだ。何に全力を出すか。
 その過程の中で自分が「正解」や「不正解」を求めていれば、そこに傾けたエネルギーが大きければ大きいほど結論は早く出る。これもダイジが言っていたことだけれど。
 正解を求めていた人の前には必ず不正解が立ちはだかる。疑念が襲いかかってくるわけだ。
 そして到達したとき、正解も不正解も無かったと気付く。あったのはただ旅だけだったのだと理解するのだ。
 そのとき相転移が起きて終わっている。終わってから気付く。もう昔のことはわからない。蝶はイモムシの意識を理解しないのだ。
 何だか変な気持ちだが、これからは花の密を吸いながら生きて行くしかない。
 行法を続けていくというのはそんなことだ。
 だから自分に合う行法というのは「自分がどういう人間であるかに依存している」と書いてきたのだ。
 もちろん自分に合うという行法は効果を感じるものである事が多いだろう。そこには確かに上達の感覚、体験が重なってくるはずだ。
 これもその内書こうかと思うが体験は理性を凌駕する。
 何故なら体験の本質は啓示だからだ。ガッザーリーの言葉を借りれば理性が感覚の上に在るように、啓示は理性の上に在るのだ。これは人間が、今在るように人間として在る以上、最も注意しておくべき構造の1つなので、よく覚えておいた方がいい。
 逆に効果の感じられない行法、体験の伴わない行法は疑念を惹起するので、自分には合わないと感じたり、続ける意欲を失いがちになるだろう。
 そういう行法を指して人は「自分には合わない」と言っているのだ。
 ところが困った事に、将来的には一転してそれらの行法が効果を発揮し始める可能性もあったりする。
 こうして問題は出発点に戻ってしまう。一体自分に合う行法は何なのか?
 考える必要はある。テストしてみる必要もある。けれど何かの因縁で一瞬で啓示を得られることもある。
 何が起こるかはわからないし、決められない。
 例えるならばレールを敷設することは出来るが、そこに電車が来るかどうかはわからない……というような話なのだ。
 でも不安になるから線路に耳を当てて「振動が来たぞ」などとやっている。
 でないと継続意欲が保たないからだ。
 この事に関してクリシュナムルティはこんな風に言っている。
「呼び込もうとしてはならない」と。
 そしてすぐにこうも言っている。
「でも窓は開けておく必要はあります」と。
 ただそれだけの事に過ぎない。けれど、それを冷徹に実行していくのは中々骨が折れる事だぞと私は思う。
 そこでやっぱり人は「今の自分に」合う行法を求めるわけだ。その為の指針については過去のnoteで書いてきた。
 けれど、どちらにしても、いやもっと言えばその行法を続けるかどうかの決定自体、自分で下しているのかどうか怪しいものがある。
 以前noteでも書いた覚者のAさんが、世界について「無数の運動が無限に複雑な軌道を描いていながら、しかもそれが完全に調和しているのを見た」と言っていた。
 流れというか、相互の関係性はある。それは感じる。
 人はその中で自分が自由意志を持って選択し、行為していると思っている。
 その無数のアクションの束を自由意志と呼ぼうが、あるいは反射反応と呼ぼうがそれはどうでもいいと思う。
 重要なのはただ一つ。自分が目的を遂げられるかどうかだけだ。
 その為に人はやはり自分に合う行法を求めていくことになるだろうし、外れ札を引いたと思えば落ち込むことになるだろう。
 けれどそうしたことを、行法という流れ全体を観る目で観ていくと、当たり外れは然程重要ではないと気付くときが来る。
 求めているのは到達だ。目的への到達。ならばその過程はただやり過ごす為のものでしかない。覚者達の「超能力は不要。危険な罠だ」というアドバイスの理由の一つがここにある。
 そして最も恐ろしい事実は、当たりを掴んでも到達できるとは限らないし、外れを引いても失敗するとは限らないという事だ。
 ただしこれは目先に囚われるなという事ではない。
 こうしたことを書いていくとどうしても手垢のついた教訓、死んだ記号へと結論が落下しがちなので困るのだが、そんな事が書きたいわけではない。
 けれどやっぱり言葉でまとめようとすると、どうやって遣り繰りをしていくか。結局はそれだけなのだという事に落ちつく。
 そしてこの結論だけを言うと間違いなくほとんどは頓珍漢な花を咲かすか、毒の花を咲かせることになるだろう。
 だから長々書いてきた。そう、目的を達する為には旅そのものが重要だったのだ。
 ただしその全部という意味で。こう書けば少しは陳腐さから免れる気がする。
 或いは引用でもいい。
「行為の結果を放擲せよ」
 でもそれが出来ないから苦労しているんだけれども。
 出来ないから行法選びで苦労してるんだけれども。
 例によって長々書いてきたけれども、結局は行を続ける中で、自分がまさに旅の途上にあると実感できるかどうかだ。
 それがあるということは、少なくとも方向に関しては間違っていないわけで、この先山あり谷あり、人肉饅頭を作る宿屋(水滸伝)ありという恐ろしい状況かも知れないけれども、とにかく方角自体が正しいならば、まあ歩いていく気持ちにはなる。
 ある小説の冒頭に、主人公が近道だと教えられて歩いていくシーンがある。
 その道は丘を超えるのだけれど、その丘の上に白い雲が並んでいる。
 主人公はそれを見て、何やら階段のようだなあと思う。
「その階段を目でのぼってゆくと、深縹色の天である」(原文)
 雲と天とは全然別だけれども、天へ到ろうと思うんだったら、やっぱり雲の階段を登っていくしかないのだ。

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