〈6.もし僕がハーバー大学で佐賀をアピールしたら〜船乗り〜〉

 最後に中島家のルーツについて語りたいと思います。


 僕の先祖である中島家は貿易商でした。日本と韓国の間に対馬(つしま)という島があります。対馬は宋(そう)という名字の一家が治めていた国で、日韓の国交を仲介していました。

 宋氏は、政治的な問題はともかく経済では交流しようという考えを持っていて、江戸時代には日韓の友好に尽力しました。


 そして宋氏の家来だった人が僕の先祖中島家でした。中島の名字は対馬が韓国と日本の真ん中にある島だから付いたそうです。

 中島家の人は九州各地の港から港へと渡り貿易しました。


 長崎市には中島川という川があります。中島川のある長崎市は南蛮貿易で栄えた町です。

 また中華街もあります。中華街は、今は中華料理の街ですが昔は貿易商でした。僕の先祖も中華料理を食べたかもしれません。

 佐賀と福岡の県境にある筑後川(ちくごがわ)には大中島という中洲があります。大中島の近くにある大川は船造りが盛んな町でした。木材は日田(ひた)から取っていました。

 大川の近くの町である柳川(やながわ)には中島駅もあります。柳川の中島も港です。


 このように中島家の人々は各地の貿易拠点に中島の地名を残し子孫を残しました。


 昔は船乗りといえばスーパーヒーローでした。船出して長い冒険の末に遠くの町の文明をふるさとに持ち帰れば、貿易したり特産品を作り町を豊かにすることができました。長い船旅から帰った船乗りはふるさとで街中の人に大喜びで迎えられ凱旋パレードのようになって、それがきっかけで1つの町が都会になるということもありました。


 江戸時代の日本にも資本主義はありました。例えば日田では金融が盛んでした。日田では九州各地にお金を貸して豊かにするっていう役割がありました。


 僕は佐賀の歴史を調べてる内に昔の佐賀がいかに豊かだったかを色々知りました。

 小城(おぎ)という町は昔は小京都と呼ばれてたし、小城の一部である牛津(うしづ)という町は、昔は西のなにわと呼ばれていました。僕の住んでいる大和町の川上峡は九州の嵐山と呼ばれていました。佐賀の中心街にある新馬場通りは金融や情報交換が盛んで、佐賀のウォールストリートと呼ばれていました。

 佐賀の川副(かわそえ)町には三重津(みえつ)海軍所がありました。ここは明治時代に軍港、ハーバーとして使われたところです。川副はそれによって繁栄しました。


 今は資本主義の中心地は他の町に移りましたが、僕はかつての賑わいを佐賀に取り戻したいと思います。


カフェクラブ編につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?