自分に辛切(しんせつ)
経験は自らの機能の裏付けとなる。その時の行動はどんなアウトカムズを生じさせたのだろうか。いや、経験を積む際に、これは最善の行動であると認識できたのは何故なのか。三回実行して、仮説の範囲で等しい結果が得られたのか。得られたとするならば、それは何故なのかを、自らに納得させることが出来たのか。
経験は自らを縛る。それ故に、慎重にならねばならぬ。経験はあくまでも経験であり、世界から見た自らの能力の立ち位置を、その瞬間に示すものでしかない。それ故に、その経験を元に、指導する未経験者よりも自らが行った方が速いと短絡思考し、それを行ってしまうと、第三者の価値観から得られる貴重な情報を逃してしまうばかりでは無く、教育者としての指導者の側面を、自ら封止してしまうことになる。教えるは学びの半ばである。どんなに学んだとしても、そしてそれを実践的に経験で裏付けしたとしても、そこから初学者に教え伝えることが出来る要素技術を支える学理の質は、自ら身に着けている力の半分にも満たないことを先哲が語っている。
後から来る者に実践させ、その結果だけでは無く、その人物の力量の変化を体感し理解することは、自らの伝える力の向上に直結することを忘れてはならない。そして初学者に自らの知識・知恵を知られることを恐れてはならない。共に成長すれば良いだけの事である。自らの能力と同等に育って頂けたならば、チームとして能力が二倍以上になると考えれば良い。自らを乗り越える者の存在を恐れてはならない。むしろ乗り越えさせ、その道を任せ、自らは新たな道を切り拓く意識を持てばよい。関わる学理が自ずと広がっていく。先に生まれた者として自らを客観視し続ける。それが自分に辛く接すること。即ち自らの心を律すること。「自分に辛切」として伝えたかった事である。