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自らに謙虚であるべき

2024年2月5日付の新聞二紙のスポーツ面の見出しである。「熱意が足りない」、「執念を感じられない」という表現が、国際試合での自国の敗北に対して、その試合に出場した選手諸氏に向けた記者氏と編集者氏の意見である。これは記者と編集者両者の価値観から吐露された表現であって、応援団全員の総意であるはずが無い事は明らかである。そして、日の丸を背負って他国の代表選手としのぎを削り合った試合後の、我が国選手達の自意識の吐露では無い事は明白である。塩鉄論・利議曰く『言う者は必ずしも徳有らず。何となれば、これを言うは易くして、これを行うは難しければなり』である。

特に、指導者の立場において大いに気を配る必要がある。自らは経験者で「こうすれば出来る」ことを知っているが、初学者はそれを知らない。また、締め切りに追い立てられている時に、後で修正・訂正するよりも自分がやった方が速いと、任せた筈の案件にずかずかと入り込んでしまう。実はこれにはいくつかの注意するべき観点がある。

新しいことを生み出すためには研究を行い、そして開発に着手する。研究とは「究極に研ぎ澄ます」ことである。過去の経験は究極に研ぎ澄まされた結果、得られた成果であったであろうか?その経験は、絶対値として認定されたものだったのだろうか?当然の事ながら「否」である。何故ならば研究とは究極を目指し続けるものだからであり、終りは存在しないからである。物理学の世界を例えに出せば、加速器の進化に伴って、過去の「正しい結果、思考」が覆され続けている様は、正にそれを示している。研究成果を得たその瞬間においては正しかった。それを経験しているという事である。若者の価値観があなたと同じ場に立つ事で、新たな気付きが得られる可能性がある。自らに謙虚であるべきである。