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基礎とは共通言語

共通言語で語れることが共通知識であるとするならば、文系も理系も全く関係ない哲学世界の対話となる。そこには文化、歴史、倫理等々、人が人として存在している理由が含まれる。基礎を学ぶということは共通言語で語れる内容を身に着けるということだ。即ち、自らの言葉で語れなければ、それは学んだことにはならない。座学で身に着けた基礎知識は実践によって活用可能となっていく。実務によって共通言語化していくということなのだが、そこにはしっかりと落とし穴がある。自らの価値観にマッチした単元に出逢った者が、その興味の赴くまま、それをやりたいと、極めて欠如した基礎の学びを活用しようと実務の中で使おうとするのだが、知識が足りず、ベテランに向かって牙をむく。自らの学びの薄さを棚に上げ、寄り添ってこない人間に対して反発し、社会を低次元化させていく。毒親とバカなガキとの関係もこのようなものだ。

それ故に、基礎をしっかりと学ばなければならないわけだが、高度な専門知識を要求される世界に生きる現代人において、高度専門知識を活かすべき場における基礎知識はなんであるのかを吟味し、それを教育していくことが必要となっていく。古典芸能のような古めかしい物理や化学を学ぶ必要など無い。チーム内にそれが解る者が居れば良い。しかし、今、存在していない機能を盛り込もうとする高度機器開発において、その専門であれば当然理解できなければならない共通言語が存在する。それを徹底的に机上で身に着け、実習で実践することで会話力に高め、そして未知の科学を工学を活用して技術として社会実装していく。共通言語を学ぶ場所が大学であり、実務として昇華させる場が企業である。勿論、独りで可能な者は起業すれば良い。