7月の満月対話「時間のあり方について考えてみる」
先月からやり始めた満月と新月の日のオンラインの対話じかん。
満月の日は、本から考えたことをテーマにあれこれ語っています。
今回は、妻が「半市場経済」という本を読んでnoteを書いてくれました。
思考を巡らせる良い時間だった。
ほんの一部ではあるけれど、手帳に書いてたメモ。
この余韻が残っている間に、
心に残っている言葉や改めて浮かんできたものを書き記しておこうと思う。
だから「子ども」の存在を大事にしたいと思っていたのか。
それぞれ、生きるために働いていたり、暮らしていたり。
経済的生産性のある「時計時間」を過ごしている(過ごそうとしている)
その中で、生産性のない時間を「ムダな時間」として、
極力排除しようとすることが多い。
宿泊業として、サービスとしては、
時計時間ではない、時間を忘れて今その瞬間を過ごせるような空間や過ごし方を提供しようとしているけれど、働いている本人たちは、ムダのないように、経済合理的な時間の中で過ごしている。
つまり、
本当は「時間を忘れて今を生きること」が求められている(自分も含めて求めている)ということがわかっているはずなのに、それをしてはいけないことになっている。
そこにギャップがあるよね、という話だったのだけれども、、、
どちらも大切なのだろう。
どちらもわかる。
効率的に、生産性のある時間に没頭する自分もいるし、
合理性という判断軸を一回棚に上げて、ただ、今目の前の時間を過ごす心地よさも知っている。
きっと、その両方を持ったまま切り替えながら過ごしているのだと思う。
それを自在に切り替えられるのが良い気がする。
そういえば、屋久島でもらった言葉、
「生産性のある日々と、生産性のないことを許せる日々を」
というのがずっと心に残っているのだけれど、
こういう意味なのかもしれない。とふと思い出した。
そして、
「時計時間」から強制的に「われわれ時間」に引き戻してくれるのが
子どもの存在だなと思った。
目の前の「いま」しか生きていない子ども。
その存在があることで、あれこれ考え過ぎてしまう大人たちが、「いま」に立ち戻れるのかもしれない。
子どもと向き合うことで、「いまここ」に行ける気がする。
それは時に、「生産性が低くなる」ことで、
「時計時間」がデフォルトの経済社会からは疎われることにもなる。
でも、実はそれは、
より「自然」に近い子どもたちが、「時計時間」になり過ぎてるよーって言ってくれているのかも。
切り替える練習をさせてくれてるのかもしれないなと思った。
数年前に取材に行った農家さんが
「子どもが生まれても、意外と生産性は変わらなかった。むしろ上がってるかも」と言ってたのが、なんとなくわかる気がする。
なんでかわからないけれど、
子どもが生まれる前から、
子どもたちが豊かに過ごせる世界にしたいと思っていた。
それはある意味、
自分自身が「われわれ時間」に戻りたがっていたからかもしれない。
思ったことを徒然と書きました。
然くんをお風呂に入れてきます。
(毎度のことながら、カバー写真は内容と関係ありません。悪しからず。)
(全くないこともないけれど。)