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食べることは生きること。そして、食べものをつくることが働くということ。

田舎暮らしシェアハウスをはじめて、
生活コストを安く抑えながら、おいしい食卓を囲んでご飯を食べている毎日が本当に豊かだなぁと感じてる日々です。

「食べることは生きること」
リトルフォレストの映画や農/食界隈のコミュニティの中でよく耳にする言葉。


季節を感じながら体を動かして、エネルギーを消費して、疲れて、温泉入って、1日の締め括りに、命をいただいて、食べる
食べることは生きることそのものだと思う。

そして、最近それに加えて思うのは、
食べものをつくることが、本来の働くの意味だったんじゃないかなと。


経済成長を成し遂げたいまの日本では、
「働く=お金を稼ぐこと」だと思います。

仕事して、その対価としてお金をいただく。
なんの違和感もない当たり前の感覚。

働くとお金がもらえる。
稼いだお金で食べものを買う。
稼いだお金で家賃を払う。
光熱費を払って、電話代を払って、交通費を払って、
たまには贅沢をしてみたり、自分の好きなものや好きなことにお金を使う。
貯金もしてローンを組んだり、子どもを育てたり。
来月も生きるためにお金を稼ぐ。稼いだお金で飯を食っていく。

そんなふうに毎日を生きているけど、


でも、
少し前までは『生きるために食べものを得ること。』が本来の働くの意味だったと思います。

いや、いまも本質的には変わらないのだけれど、飽食の時代になって食べ物の価値が下がったことと、お金という資本の価値が上がったことで「飯を食う」という本来の言葉の意味が捻れてるんじゃないかと思うのです。
資本主義が大きくなる前は、自分たちで食べるものは自分たちでつくっていて、自分たちの手で暮らしをつくっていた。そのコミュニティを家族の中で、地域の中で形成していたように思います。
「働く=食べものをつくること」で、だから、「働かざるもの食うべからず」だったんじゃないかなと。



そして、「今までの当たり前」に違和感を感じ始めている人がじんわりと増えてきている。
その大きな転機はもう9年前にもなる東日本大震災だったかもしれない。



当時の自分は中学校3年生で、東京の中野に住んでいました。
卒業間際で教室の大掃除をしているときに緊急地震速報のサイレンが飛び込んできて。音が鳴り止んで。なにもないなと窓の外を見た瞬間、外の木が横に揺れているのが分かって。大きく揺れました。とは言っても東京は震度5強。東北はもっともっと激しかったのだと思います。

幸い怪我などはなにもなく、上空をずっと飛行機が旋回しているのを見ながら家に帰りました。


ただ、母は大変だったみたいで。
食器が全部飛び出してきて、その後もスーパーから食材が消え、日々余震が続くなか、「放射能」という言葉がずっと頭に残るようになりました。

ちょうど震災の一週間後に父の転勤が決まりました。
そして、逃げるような形で僕らの家族は九州に帰りました。

多分、これまでの人生で一番激動の春だったと思います。

九州の実家に戻ってきてから、母は畑を借りて農業をはじめました。
「自分たちで食べるものくらいは自分たちでつくっておきたい。」
今では農業者認定ももらい、本業の傍ずっと農業を続けています。




多分、母にとっても人生の中でターニングポイントだったと思いますが、
僕にとってもその姿は印象的に意識の中に残っています。




東日本大震災のような大きな災害はありませんが、毎年のように大型台風がきたり、夏雨が降らなかったり、降る時は一気に降って水害が発生したり、冬が暖かくて去年より薄着だったり。

それももしかしたら、これまでの環境負荷のつけが回ってきたのかもしれません。僕らはなんとなく、今までの仕組みが持続する仕組みではないことに気付いてきました。


そして、去年の春、僕は、東京から北九州を通り越して、耶馬溪というもっと田舎に移住してきました。

田んぼや山に囲まれたこの環境で、日本の「里山」の文化をもう一度見つめ直してみたいと思っています。

森に入って木を切り、そのエネルギーで風呂を沸かして、暖をとって。
畑には自分たちが食べたいもの、食べさせたいものが並び、おいしくなるように手をかける。山に入ると、そのときの旬の食べものや命があって、自然のめぐみをいただきながら食べる。

森を豊かにすると、土が豊かになる。
土が豊かになると、水も豊かになる。
土と水がいいと、農作物は元気に育つ。
なによりも、その水で炊く白ご飯は本当に旨い。


そんな森も川も土も畑も実は「人の手」が必要で、
自然のままが最適な自然ではなかったりします。

そんな自然がいまは過疎化とともに荒廃しているけれど、
「自然+人」という里山空間は、人にも自然にもムリのない持続的なライフスタイルが眠っているんじゃないかと。

そして、それは、これからの時代にこそ求められていく文化だと思うのです。


大分の片田舎での僕らの仕事が、次世代の子どもたちに贈ることのできる「何か」を生み出せたらいいなと思います。



食べるために、お金を稼ぐのか、
食べるために、食べものをつくるのか。

僕はもっとシンプルに生きていいように思います。



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