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魂の振動数を身体感覚で思い出す場所

4日間のイベントが終わった。
これまでやってきた環境系学生未来塾のアレンジバージョン。
「対話」と「暮らしづくり」を通して、自然体で共に生きるコミュニティとなる4日間を過ごした。


「大人」になってきた僕ら。

これまでの大学生向けの企画ではなく、
このイベントを始めようと思ったのは、
自分たち自身が学生から大人になってきて、悩みや問いが変化してきたから。

社会的には「働くこと」や「暮らすこと」も数年間やってみて、解像度は上がった。こんな社会になっているのだとわかってきた。
それでも、学生の時に願った本当にありたい姿、やりたいことにはつながっていない。むしろ「現実」に触れて壁の厚みが大きくなってきたようにも感じる。

ともすると、「理想」なんて「現実」を知らないから口にできるのだ、と確かに自分の中にあった直感や感性すらも否定し始めてしまう。


お金がないと生きていけないし、働かないと食べていけない。
ちゃんと単位を取って大学は当たり前のように卒業しておかないといけない。
子どもができたら会社は辞めないといけないし、キャリアは諦めないといけない。
この道を選んだのは自分なのだから、自分でなんとかしなければならない。
みんな自立してるのだから、自分でやりくりして、独立しないといけない。

悲しい気持ちも、いま感じている痛みや願いも、心が踊るようなワクワクした気持ちすらも封印して、感じないようにして、おとなしくなる。それが、「大人」になるということなのだと。


そうであってたまるか。

みんなの命の燈はもっと眩しいくらいに輝いていたはずだ。


年々小さくなるその光を嘆き、
輝けない社会に疑問を投げかけ、
本質で大事にしたいものを問い、
共に大事にできる仲間と一緒に、
大事にするための時間を過ごしたい。

そんな思いから生まれた企画。



ただただ、五感や⾝体感覚を研ぎ澄ませ、
「⾃分の⾝体が⼼地いいと感じること」をやってみる。

共につくることに夢中になって楽しんでいたら、
⼿触りのある暮らしがいつの間にか出来上がっている。

身の回りの衣食住と環境を、
⾃分たちの⼿でつくれる小さなつくり手となる。

それを、
誰かと共にする。


そんな遊びのお誘いに、
一緒に楽しんでくれる人が集まってくれたイベントでした。


暖かい氣に満ちた場所でみんなを迎え
昼の食材を収穫させてもらい
暮らしに溶け込んだ自然を感じて
共に食卓を囲み
命を祝い
共に見守り
大事なことを問い直し
内側にあるものを表現しあい
魂の喜び、命の振動数を再確認する


振り返るといい時間だったなぁ。
愛おしい時間だった。

こんな場を開けて幸せだったし、
心も身体も良質な氣で満たされた。
このエネルギーの輪を広げていきたい。
もっと分かちあいながら生きていきたい。



ここからはとくに自分自身が感じたこと、
いま心の中にあるものを書き出してみる。


①子どもが中心にいるから、大人が活きる。

今回の企画は初めてフルで然くんと共に過ごすイベントだった。
多くの場合は、子どもがいると動き回るし、予測不能だし、重荷になりがちだと思う。大人の都合に、子どもを合わせないといけないことが多い。


でも、今回は然くんが泣いてたら、別室に連れていったり、周りに気を遣って過ごすのではなく、みんなで然くんを見守ってもらい、抱っこしてもらい、オムツ替えワークショップと称して、オムツ替えの練習が始まったり。

コミュニティ(もしくは、群れ)で子供を見守る。
群れの中心に子どもがいるという、きっと本来はそうであっただろうコミュニティの姿がそこにはあった。

むしろ、然くんが中心にいることで、みんなが自然体になっていくような。
あるがままにいまを生きる然くんと時間を共に過ごすことで、
みんなもまた、本来の魂の振動数を思い出していく時間だった。

子どもがいて、大人がありたい姿を思い出し、活きてくる。
その生き生きした大人の背中を見て、子どもが育っていく。

コミュニティで子育てがしたいとはずっと思っていたけれど、
それが体現されていた場だったし、それを体感してみて、やっぱりすごく良かった。



②場があるだけで、それぞれが感じ取る。

細かくコンテンツを用意したり、タイムスケジュールを組んだり、それぞれの時間でどんなものを感じて帰ってもらうかなど、設計することが多い。

もちろんコンテンツの背景や意図はあるのだけれど、
細かく設計しなくても、「場」さえ開けば、それぞれが感じるものや受け取るものがある。
そして、それが一律ではなく、それぞれであるから豊かである。

それはまるで「茶道」や「茶室」のようなものだった。
細かい作法とは色々あるのだろうけれど、お茶を通して、五感で感じて、受け取るものはそれぞれであっていい。
(なんの縁かわからないけれど、イベントが落ち着いたタイミングでお茶を体験させてもらう機会があって、内側に向き合ういいひとときを過ごせた)

チェックアウト(最終日のワーク)にて、
みんなが表現するものがそれぞれ違って、それぞれの魂の色が表現されている感じが今回もすごく心地よかった。



③等価交換ではなく、円環で巡る価値の心地よさ。

今回、明確な参加費を設定しなかった。
俗にいうスライディングスケールという形で15,000〜55,000円の範囲内で、それぞれに感じた価値を受け取ることにしてみた。

今まで、参加費を設定することに違和感があった。
素直に、自分で価値をつけることができない。
原価や人件費で計算して、こちらの都合で値段をつけることも、それが参加して欲しい人たちにとって、適正価格であるかもわからないのに、営業することも、どこか引っ掛かりがある感じがして、前向きに声をかけることができなかった。

でも、今回のワークを通して、
それは自分自身が資本主義の中で、モノやサービスを等価交換しようとしてたからだと気がついた。
等価交換の世界では、もらいすぎや与えすぎが良くないとされる。
でも、円環で巡る世界では、価値を受け取り、満たされることで与え、足りないものを素直に求めることで、人と人とのコミュニケーション、小さな経済圏が巡っていく。

等価交換と円環の価値交換
今回受け取った価値を、どう巡らせていきたいかを表現してみた。


等価交換するサービスではなく、循環の一部だったからこそ、
「資本主義」に引っ張られる居心地の悪さがなかった。
次に巡らせていきたいことを表現した上でもらうお金は、まるでこれからつくっていきたい世界観を共に創ってくれている感覚で受け取れた。

お金が目的ではなく、コミュニティをつなげてくれる手段となっていた。
その距離感が心地よかった。


(今回のワークの参考図書として活用させてもらったのは、由佐 美加子さんの「お金の不安と恐れから自由になる」という本)



④働くことと子どもが分離されていない社会

これまで、別府のカレー屋さんや屋久島のカフェや耶馬溪の珈琲屋さんなど、子育てと働くことが共にある育てかたの話は聞いていたけれど、
自分の家やお店で子育てをしながら仕事をすることがイメージできないところがった。

本当に子どもの世話をしながらお店を回すことができるのか。
想像できないからこその怖さもあったけれど、今回のイベントを通して、大丈夫だと思えた。

子どもが素直に本能のままに願いを表現する姿をみて、大人たちもまた、自分の内側の願いや想いに向きあっていく。
子どもは社会にとってお荷物なんかじゃない。
むしろ、子どもが中心にいる世界から生まれる価値がある。

それを増幅させていきたいと思えた体験だった。




⑤良質な氣で満ちたエネルギーは分かち合うことができる

年に1〜2回は未来塾をずっと続けてきたけれど、今回はとくにすごく良質な氣で満ちている感覚がある。
それはこの4日間(1週間?)を共に過ごして満たされたものもあると思うけれど、振り返ってみると、ここ数ヶ月は悪い氣に触れることがなくなっていたように思う。
例えば、補助金とか収支とか大人の経済的な要因から発生する澱んだ氣や、
誰かを利用して自己利益のために行動するような嫌悪的な氣、批判や否定から発生する氣など、心のエネルギーが引っ張られるもの、引っかかるものから距離が離れていたように思う。

地元の集落の人が快く受け入れてくれて、準備をしてくれて、若い世代が地域とつながる機会を応援してくれる良質な氣。
1週間の休みを取ることを了承してくれた職場や補ってくれた同僚の人から発されていた氣。
他にも色々あるけれど、
自分自身や、場所そのものに良質な氣が巡っていた。


この氣は③で書いたように、
円環で巡る価値の循環に載せることができる。

「人の想い」を受け取り、満たされることで与え、足りないものを素直に求めることで、コミュニティの中で良質な氣を巡らせ、分かち合い、増幅させていくことができたら、豊かに生きれそう。

そんな感覚だった。



⑥ここから、場づくりが始められること。

ビジネスの文脈でチャンスがあるからとか、社会的な需要があるから始める事業ではなく、人の想いや願いを出発点に新しい場をつくり始められること。それができること自体が、自分一人ではできないありがたい環境であることを感じている。

これもなんの縁かわからないけれども、
みんなが帰ったあと、南島原のarietoさんのイベントの動画をアーカイブで見た。
いつか聞いた「村づくりはお産から始まる」という言葉。
女性が持つ本来の力、そこから生が始まるということ、性も生と死も同じだということ、生きる力そのもの。
いろんなキーワードが、今回のイベントにも重なることがあって、
もしかしたら、我々は生きることそのものと向き合っているのかもしれないと思った。


これからつくっていく場は、
実は「お産」もできるような環境に整えたいと密かに思ってたりするのだけれど(地域をつくる始まりの場にしていきたい)
お産と同様に、みんなの魂に生を吹き込む場所にしたい。
生きる力そのものを養い、魂を振るわせ、命の燈火を表現していける場に。

そんな場をまた共につくっていきたい。


その第一歩となるイベントができて本当によかった。

関わってくれた皆さん、ありがとうございました。
またこれからも末長くよろしくお願い致します。


2024年9月16日
松木 太


健やかに。


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