十三日の金曜日、普段通りに出勤した私は課長に呼ばれた。 「私としては大変残念な事だが、この度、森林くんは別施設へ異動になりました」 「はぁ」 「10月1日からはそちらで頑張って……」 「わかりました」 流転奉公。そんな言葉が浮かんできた。さして異動したくない訳でもなかったので、あっさり了解した。自分の異動よりも、遥かに今晩から始まる静岡への旅の方が気がかりだった。 夜八時過、駅で待っていたMと落ち合う。今回の旅の成功は彼の功労によるものが大きい。宿の手配から切符の予約ま
歴史は誰のためにあるのか 政治は歴史を欲する 乳に飢えた赤児のように しかし 歴史家は政治家にならず 政治家は歴史家に転身しない 歴史もまた政治を中枢に据えたがる ケーキには苺が必要だと言い訳して しかし 統治の仕組みを知って我々を何を得るだろう? 貴族の名前を並べて何が満たされるのだろう? 一体何度「過ちを繰り返すな」という文言が繰り返されたろう 文字では争いを抑えられない 思想は世界を刷新しない わたしが 先祖の墓石を清め 花を献じ 霊を弔うとき それは歴史の一
概要 1999年、誕生。 2022年、大学卒業・就労。noteはじめる。 遍歴 小学〜中学時代 ・ファミリーコンピュータに熱中。一番すきなのは『North &South わくわく南北戦争』。 ・科学部入部、狂気と哄笑の一季節。 高校時代 ・級友(淫夢厨)の影響により淫夢語録を乱用。 ・2ch(現・5ちゃんねる)スレまとめサイトの閲覧だけに時間を浪費し、勉強せず。 ・部活動で合唱をたのしむ。 ・星新一に精通した友人を得、読書開始。 大学時代 ・2年の夏休み、永井均『世
焚火を囲んで歌をうたい 手を繋いで踊ると 死の容易さが抉剔される 踊りは 誰が誰であってもよい その輪に加わることの 簡単さは 極楽浄土が然程遠くないとの 確信を与える 生きて苦しむ必要はないが 死んで楽になるのは 耐えられぬ ひとりの少年が 松明を手に 火を盗んだ 追われる事もなく走り始めた 篝火は燃えている 人は時折 火の奴隷 暗がりから薪を調達しては 焚べ続ける 太陽に劣らぬ明るさが 夜にも欲しかったから 少年は深い森の中に 動物の声を聞き 生きているのを思い出した か
本稿の内容は、既に公開済みの詩「傘」で書いた内容と重複してしまうように思われる。形式が散文か詩かで変わっているだけである。けれども、私が「傘」で書き逃している微妙な問題をここに半ばメモとして記録しておきたい。読書諸氏にあっては、本稿読了後に「傘」をお読みになっていただいても構わない(なぜなら「傘」でしか言表し得ない事柄もあるから)し、またその逆も一切可である。 現代の恋愛は、必要以上に金銭を浪費させる構造となっている。例えば、ごく単純なデートプランとして「映画を視聴した
最も好きな履物、ローファー。高校入学時に近所の靴屋で買ってもらったハルタ製の小豆色をしたローファーを履いて、欣喜雀躍した。もう靴紐を結ばなくて良いじゃないか!と。爾来10年間、ローファーユーザーである。今はスニーカーも持っているけども、やっぱりローファーで出歩く事が多い。散歩も、旅行も、遊びに出る時も、出勤も、全てローファーでこなす。 ローファー(loafer)には、怠け者、サボり、プー太郎、浮浪者という意味があるらしい。まさに「類は友を呼ぶ」。私は職場でも飲み会の場でも日
まだコンビニエンスストアに「成人向け雑誌」の名の下、堂々とエロ本が売られていた時代の話である。一通り乳歯も抜け落ちて、何もする事がない夏の昼下がりは長過ぎるから、公園に行っていた。気温が毎日のように三十度を超えるようになってしまった今時分では考えられない話だが、その頃の沿岸部の町は涼しかった。プールの授業で全身が震え、唇が紫色になる児童が多数いたような気候だった。 公園では大抵「常連」の誰かしかが遊んでいて、そこに行けば何かが起きていた。事件を起こしたいガキと事件を期待する
私は喫煙者ではない。が、純粋に煙を愛しているという意味では「愛煙家」である。煙草のけむりに限らず煙を立てるものは基本的に何でも好きな方だ。例えば、私は海に近い工場地帯の煙突がひねもすぽっぽぽっぽと吐く煙を愛した。また、近所の駄菓子屋で吊るして売られていた「ようかいけむり」を意味もなく買い求め、指先から煙を放っていた。後にも先にもあれ程刹那的な三十円の費い道は無いと思う。中学から愛読した石川啄木の『一握の砂』の一番好きな章は「煙」だった。 就職と共に、少しだけ都会っぽい町へ来
栗駒山の雪融けがすすみ、山の腹に馬の姿が浮かんで来る頃となると、田植えの時節だと聞いたことがある。水無月も近くなった五月の終わり、自分は博物館へ出かけた。博物館へ行くときは、紺地に銀ボタンのテーラードジャケットをよく着る。背広は堅ッ苦しいから真平御免だが、私には展示品とそれらを準備した方々に対する敬意を表する気分(腐っても学芸員!)があるので、博物館へ出向くときは、シャツは襟付きのものを選ぶし、多少暑くとも上着は着るようにしている。 平日の昼間だというのに、館内は大盛況だっ
地下鉄にリクルートスーツの若者が乗っている。どうやら就職活動の真っ只中らしい。三年ほど前、自分は丁度彼らと同じ就職活動に迫られた学生だった。 大学院への進学も考えたが、研究者や教員になる気は無く、生涯学問に携わるだけの実力は無さそうだったので、それは止めにした。就職しようかと思い立ったのは大学4年の夏だった。 「公務員にでもなろうかな~」 「森林くん、公務員試験はもう軒並了ったよ」 「ひえ~」 後から知った話だが、大抵の就活生は大学の3年ぐらいから準備を始めるらしい。夏
はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る 愛好する石川啄木の一首である。中学生の頃から啄木は好きな歌人だが、実際に働かざるを得ないようになって読む啄木は、また味わい深い。最近、高田渡の「夕暮れ」とか岡林信康の「三谷ブルース」とか労働者の歌をよく聴いては、職務怠慢の新聞社員であったという啄木の姿を思い浮かべ、そこへ自分を重ねたりする。 夜、僅かな食事の時間の後、窓を開けて麦茶を飲む。「あゝやつと座れたなあ」と安堵しながら俯き、何も考えず、手を見てみたりす
五月晴れの町は強風であった。町内のさゝやかな祭りに、自分は労務として行った。見渡す限りの新緑と老人。いわゆる限界集落らしい。祭りの出し物は中々に悲惨だった。地元の「アーティスト」が洗濯機の中みたいな音響に耐えながら、歌をうたっていた。踊りや太鼓、楽器の演奏…いずれも華やかなはずだが、聴衆は枯れ果てた老人だから、ノリとかグルーヴ感とかもうそういう次元を通過してしまって、ロックすら侘び寂びの状態だった。たださえ疎な席に風が吹き荒ぶので、ステージは世紀末のちんどん屋と化していた。
季節柄か、学生服の若者が手に花を持って街頭を往来しているのを見かける。ふと、むかしの事をよく思い出す。 遡ること十年前、私は地元の公立中学の科学部に所属していた。概して運動が盛んな学校であったから、文化部は花形である吹奏楽部を除き、白眼視される対象にあった。小学校卒業時、既に「運動するつもりなし」と心に決めていた私は、ふらふらと体験入部の期間を過ごし、幾人かの小学時代からの悪友を誘って、「最も気楽そうな」科学部に入ったのだった。 私が入部した頃、三年は部長と副部長の僅かに
最近、俵万智の『サラダ記念日』を読んだ。「この味が〜」が有名すぎて、むしろそれ以外知らなかったので、他の歌を知る良い機会になった。 簡単に所感を述べてしまうと、俵万智の歌はエロい。私には非常にエロく感じる。こんな本が401刷282万部売れたのだ。そして現にまだ売れ続けているのだ。やっぱり、日本人はエロいな! ・この部屋で君と暮らしていた女(ひと)の髪の長さを知りたい夕べ ・君の髪梳かしたブラシ使うとき香る男のにおい楽しも ちょっとだけ『サラダ記念日』から歌を引用してみ
『檸檬』は梶井基次郎の代表作である。梗概だけ述べてしまえば「えたいの知れない不吉な塊」に心を圧えつけられた主人公「私」が、京都の町内を逍遥し、果物店で入手した檸檬を丸善の画本の上に据え付け、そのまま去ってしまう。ただこれだけである。話の短さ、呆気なさに対して、作中に登場する檸檬の印象は鮮烈で、他の文学作品には見られない独自の魅力を形成している。 本稿は、梶井基次郎が檸檬という果実を何の象徴、或いは寓意として作中に登場させたのかを考察し、『檸檬』の発する全く独特の文学的価値
少し前からトレンドになっているコロナウイルス(Covid-19)というのに罹患してしまい、寝込むハメになってしまった。 炬燵に埋まって、うどん、果物、うどん、果物、雑炊、雑炊、C1000タケダ…と、一時は39.9度まで熱があったので、食欲無き痩身に鞭打ち胃に物を入れていた。 突然咽せかえってしまっても、台所はしんとしている。その寂しさ。図らずも放哉の「咳をしても一人」の気分を堪能する。全然喜ばしく無いが。 風呂に入ろうと脱衣所迄ゆくと、寒気がすごく、ぶるぶると震えるので