さよならの無い別れ

季節柄か、学生服の若者が手に花を持って街頭を往来しているのを見かける。ふと、むかしの事をよく思い出す。

遡ること十年前、私は地元の公立中学の科学部に所属していた。概して運動が盛んな学校であったから、文化部は花形である吹奏楽部を除き、白眼視される対象にあった。小学校卒業時、既に「運動するつもりなし」と心に決めていた私は、ふらふらと体験入部の期間を過ごし、幾人かの小学時代からの悪友を誘って、「最も気楽そうな」科学部に入ったのだった。

私が入部した頃、三年は部長と副部長の僅かに二人であった。二年は十数名いたはずだが、殆どの諸先輩方は帰宅に忙しかったらしく、果たして何名いたか記憶にない。特に活動らしい活動も無く、顧問の教師も月に一度顔を出せば良い程度だった。活動も無いクセに、私たちはいつも理科室に集って、馬鹿話に花を咲かせていた。

「鼻がケツだったら便利だと思うんだよね」
「あ、本当の意味で鼻クソって事か」
「授業中に便所行かなくていいなぁ」
「でもションベンは鼻から出ないんだろ?どうすんだよ、一緒に出たら」
「鼻穴ふたつだけど、どっちも肛門って事?」
「味感じなくね?全部うんこ味じゃん」
「うんこ味のカレー食っても、カレー味のうんこ食ってもうんこ味のうんこか」
「くしゃみしたらバカ汚ねえぞ」

とか

「脱腸って怖いね」
「腸が飛び出てくるんでしょ?」
「そうそう。で、飛び出た腸を手繰っていくと、身体の中身が全部出て全身が裏返るんだよなw」
「ヤバすぎやろwww」
「だ、ムカデ人間って作品があってさ…」
「オエッ」
など意味のない会話ばかりして各々話芸に磨きをかけてばかりいた。

目標に追われる事も、悪どい先輩から暴力を振るわれる事も、口煩い教師から説教をくらう事もない、極度に安全で暇な空間は私の学校生活の救いだった。日中は反りの合わない同級生に囲まれて、四十近くあるスチール机と椅子の部屋で、窒息しそうになりながら、退屈な授業と抑圧の繰り返しを受ける。掃除が終わる頃から漸く緊張が解けてきて、今日はどんなボケをやろうかと考え、頭が興奮状態になる。理科室の戸に手がかかる頃には芸人の顔つきになっていたものだった。

あの残酷な二分割法「陰キャ」「陽キャ」に従えば、私たちは間違いなく前者だったろう。ただ、ほどよく元気で、友好関係に偏りや隔たりがあった訳ではなかったので、絶妙なバランスで立ち回れていたとは思う。幸い、私たちの学年には「差別主義」があまりいなかったので、私たちは迫害から逃れられた。私は勝手に「俺は文化部の地位向上に努めなければいけない」と思い込み、勝手に見えない敵と闘争していた。

我々が二年に上がる頃、科学部は帰宅部の特色を活かしながらも、運動部をリタイアした生徒や学級に馴染めない生徒の受け入れ先としても機能し始めていた。やる事と言えば相変わらず、コント・漫才・漫談の作成であり、悪ふざけであり、大喜利だった。私たちはこぞって後輩にネタを披露した。

盛夏、砂埃の立つグラウンドを遥か下に見て、窓を全開にした三階の理科室は劇場と化していた。なぜ冷房の無い暑い理科室に、義務でも無いのに集い、汗みずくになって激論を飛ばしていたのか。今となってはバカバカしいが、当時はそれが人生の全てだった。一日を終えたとき、どれだけ笑えたかが大事で、どれだけ笑いをとれたかが大事だった。世界は異常に狭かった。自転車で移動できる範囲、それが私の世界の全域だった。

あれから十年経った。中学卒業後も、科学部の友達とは定期的に集まり、「科学部残党会」とか言ってはしゃいでいた。進学先も人生設計もみんなバラバラだった。日を追う毎に、世界は広がっていってしまって、みんな自分の人生に一生懸命にならざるを得なくなって、バカ話を考える場所も暇も無くなってしまった。私は友達のひとりを傷つけて絶交になってしまったし、別の友達は高校を中退してから消息を知らない。友達のふたりは心を病んで大変だったと聞く。「疎遠」という言葉があるけれど、やっぱり俺はこれを聞くたびに悔しいと思う。ズルい言葉じゃねぇか。

秋の日に、石鹸を酢と煮詰めて「くっせ〜」と笑い合っていた時間はもう再現できないし、ガスバーナーで炙ったべっこう飴を舐めながら、生意気を抜かす事もない。でも、いつかはそうなっていたし、そうならざるを得なかったのだろう。何を今更、後の祭りだが。人生、こんなフェードアウトみたいな別ればっかりだから、ちゃんと「さよなら!」と言って爽やかに別れられたらいいのにな。




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