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「あの体験はいったいなんだったのか」経験者がつづる、不登校30年目の結論

 「どの不登校論を読んでも、ちがうと感じる」。小学2年生から不登校した喜久井伸哉さんは、自身の不登校について、約30年間考え続けてきた。あのころ「不登校の原因」を答えられなかったのはなぜなのか、自分に起きた体験はいったい何だったのか。人生を通じて考えた喜久井さんの不登校についての最終結論を、連載形式で書いていただく。(新連載「『不登校』30年目の結論」第1回・写真は喜久井伸哉さん)

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 あるとき、私の身体は「学校に通学する行為」をしなくなった。いわゆる「不登校」と言われる状態だ。大人たちから、何度も「原因は?」と聞かれたが、当時の私は答えられなかった。
 
 自分でも、何が起きているのか理解できなかった。なぜ「原因」が説明できなかったのか? なぜ、あれほど苦しまねばならなかったのか? 私は「不登校」と言われる「あの出来事」のことを30年にわたって考えつづけている(人によっては1秒ですませる問題だというのに、一生が、かかってしまっている)。

 我ながら長すぎると思うが、それでも子どものころに比べれば、多少は説明できるようになった。この連載では「不登校の原因は何か?」、「不登校とはどういうものか?」という問いかけに対する、私なりの「解答」を提出したい、と思っている。

 とはいえ、いきなり「解答」だけを語るのもぶしつけだろう。はじめに自己紹介がてら、私に起きた「不登校」とその経過について、簡単に話すことにする。

行きたいのに行けない

 私に「不登校」が起きたのは、小学校2年。8歳のときのことだ。「行きたいのに行けない」という感覚があり、自宅で過ごすほかなかった(このときの感覚については、次回詳述する)。
 
 その後小学校・中学校・高校(サポート校)と、一応卒業したという資格は持っているが、実際はほとんど登校していない。授業に出ていなかったため、学力は測定不能。一度もテストを受けなかったので、私には偏差値がない。通知表の成績の欄は、毎回、斜線が引かれていただけだった。

 10代半ばのころは、家族以外の人と会うこと自体が、めったになかった。中学生と会話をしたのは、この人生を通じて、数回しかない。とくに「14歳の人」と会話をした経験は、一度もないと思う。

 自室ではもっぱら、ゲームをするか、本を読むかして、孤独にすごしていた。そのような生活は、おおむね20歳をすぎるころまで続いた。約10年におよぶ「ひきこもり」の期間があった、と言える。けっして、楽な歳月ではなかった。たびたび、この世から失敬することを考えていた。

ぽつりぽつりと外へ

 それでも年月を経て、ぽつりぽつりと出かける先を見つけ、いつしか、少ないながらも人付き合いをするようになった。カレンダーや手帳を、自然に買えるようになったのは、20代前半のころからだ。それまでは「1年後も自分が生きている」と思えた年がなかったので、未来の日付だけが印刷されている白紙の紙、という不可解な商品を、わざわざ買おうとは思えなかった。

 はじめて人とカラオケに行ったのは、25歳のとき。人の家に行って、映画を観たりピザを食べたりしたのは、よい思い出だ。同世代の人と気楽な時間をすごすのは、幼少期以来のことだった。

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