萌えをテン年代から逆さに見ると

『ひらきこもりのすすめ』は2002年に刊行され、オタク文化の本質をその「DJ的手法」とする。このことは「編集」「コラージュ」とも言い換えられる。一年後に刊行された『動物化するポストモダン』では「データベース」という単語が跳躍する。

組曲と音MAD、そして淫夢。

ニコニコ動画黎明期のインターネット文化における主要なコンテンツは、まさに「編集」によって成り立っていたのではなかったか。これらを中心とした文化の一端を担おうと考えると「オリジナル/コピー」という区別が頭をかすめる。

竹熊健太郎氏が提唱し続けている区別としてオタク密教/顕教というものがある。この区別は、おおよそメタ/ベタと結びつけて理解できるものだろう。例えば、萌えている自分を表現することは、オタク密教からすると、あまりにベタすぎて恥ずかしい。このようなことが言える。(脱線するが、このことはオタク第一世代のもつ「萌え」への嫌悪感と結びついており、第二世代以降にはそこまで成り立たないことなのではないかと思う。)

では、「萌え」は顕教的だと、2000年代前半に生まれた私が思うかというと否である。むしろ「萌え」というのは密教的なパフォーマンスだと感じる。自分が「萌え~」というとき、それをどこか「自意識的」に楽しんでいるところがある。

テン年代をインターネットに触れて育った私にとって「萌え」は「すごいお兄さんたちだけが持つ感情」だったのだ。一般的な現在のオタクくらいには美少女は性的で記号的だと思う。しかし、それを「アキバ王」のようにグッズとして集めようとか真摯に愛していきたいとは思えない。それは私にはあくまでちょっぴり大人びた記号的な表象にすぎない。そして、それを見て萌えを本当に見出すのは(当時の時代背景からいって)虐げられつつも、一図に愛してきた傷だらけのオタクだけだと感じる。だから、私は「萌え~」ということでその愛すべきオタクのマネをすることで、うれしくなるのだ。この時代にこのような形でオタクであることができるのは、間違いなく彼らのおかげなのだから。


ご自由に〜