見出し画像

遊戯三昧【セイスケくんのエッセイ】

執着から解放された者たちは、ただ存在すること自体を「楽しむ」ことができる。この「楽しみ」こそが仏教における「遊び」であり、これは子供が遊ぶ際の純粋で自由な行為に似ているが、何かの目的や利益を追求するものではない。欲望や執着を手放したからこそ、花や山といった自然の美しさ、存在そのものの神秘さを純粋に享受できるのだ。

仏教では、このような「遊び」の境地を「遊戯三昧ゆげざんまい」と呼ぶ。「遊戯」は単なる娯楽や消費的な活動ではなく、目的を持たない純粋な行為であり、意識的な自由の表現である。この「遊び」は、利他行にもつながる。悟りを開いた者が他者を助けるとき、それは「必要だから」や「意味があるから」ではなく、自由で純粋な「遊び」として行われる。つまり、他者を助けるという行為は、執着や見返りを超越した純粋な楽しみなのである。

たとえば、子供が鬼ごっこをしているとき、その行為が「遊び」であると理解しながらも全力で取り組む。同様に、悟りを開いた者たちの「遊戯三昧」も、特定の目的を持つのではなく、その瞬間を全力で生きることにある。純粋な「遊び」として生きることが、仏教における自由であり、解脱の象徴である。

この「遊び」の考え方は、現代社会においても重要な教えである。日常生活の中で、意味や目的にとらわれ過ぎてしまうことが多いが、時には「遊び」としてただ存在し、純粋に楽しむことを大切にすることで、自由で豊かな生き方を得ることができるかもしれない。仏教の「遊戯三昧」は、ただ存在することの喜びや、他者を助けることの無償の楽しみを私たちに教えてくれるのである。

セイスケくんのエッセイ一覧

#セイスケくんのエッセイ #エッセイ #コラム


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?