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いぬじにはゆるさない 番外編「野良犬(後編)」


「生きる事は苦しむこと。」

と、坊主が言っていた。


蛇喰(じゃばみ)というのは、母方の叔父の姓だ。叔父の婿入り先の姓なので、母親の旧姓とも違う。

叔父は禅宗の僧侶で、寺の跡取りとして婿に入ったがその妻を癌で亡くしていた。叔父の両親、つまりは俺の母親の両親であり俺の祖父母だが、その二人も俺が産まれる前に事故死している。

俺の実の父親の件も含め、つくづく家庭や血縁というものに恵まれない家系らしい。

母親が泣きわめきながらどこかに電話をした翌日、叔父が俺を連れ去りに来た。そして、俺の寺での生活が始まった。

この時から蛇喰の姓を名乗るようになったがそれは単に便宜上の理由で、正式に叔父と養子縁組みをして戸籍が変わったのはここ数年の話だ。

最初のうちは何度も「帰らせろ」と暴れ、そして実際に脱走もした。継父の家に帰りたかったワケじゃ無い。“さやねぇの隣“に帰る為だ。

けれど寺のネットワークというのは凄まじい。俺がどこに逃げようと、必ず見付け出されてあっと言う間に引き戻された。そして、坊主というよりヤクザに近い見た目をした叔父は、ゴリラのような大男で、中一の俺の腕力では適わなかった。いや、おそらく今も適わないだろう。

イヤと言うほど座禅を組み、うんざりする程掃除をし、脱走の後は滝に打たれた。修行が厳しいと言われる禅宗だが、それはある意味間違ったイメージで、滝行(たきぎょう)をしている寺もそう多くは無い。後に叔父が、「あれはワシの趣味」と笑っていた。クソ坊主が。

寺での生活の合間合間で、叔父は俺に少しずつ語った。

さやねぇの継父は(惜しいことに)無事だった事、さやねぇはしかるべき施設に保護された事、俺の継父は俺に対して酷く怒り狂っている事、母親は俺を恐ろしいと感じているらしい事。

禅の修行の根本は、「心を整える」事にある。座禅や読経はあくまでその一環で、生活の全て、もっと言えば生きる事全てが「修行」だ。坊主としてなのか、叔父としてなのか、それは分らないが、叔父は俺の心を整えさせようとした。いや、俺“に”心を整えさせようとした。

寺の近くの中学に正式に転入し、半年程過ぎた頃だ。ある日突然、母親から俺宛に電話があった。叔父の下(もと)に来て、初めての母親とのコンタクトだった。

「…はい。」

「ああ、シン。元気してる?ちゃんと叔父さんの言う事聞いてるの?あのね…言いにくいんだけど。」

黙ったままの俺を余所に、母親は一方的に続けた。

「さやかちゃん、亡くなったそうよ。」


・・・・・


気が付くと朝だった。固い床の感触から身体を剥がすと、背中と腰が悲鳴を上げる。どうやら、シンの選ばなかったアルコールを飲んでいた私は、話を聞きながら眠ってしまったらしい。

シンの姿は既に宿には無く、「蛇喰さんなら、ガンジス川に行けば会えると思うよ。大体あの辺ブラブラしてるみたいだからね。」と、オーナーが教えてくれた。

ホーリーから一夜明けたバラナシの街はそこかしこがカラフルで、大量のゴミと共に祭りの爪痕を残している。

昨夜のシンの話は理解出来ない単語も多く、更には酒と眠気のせいでおぼろげだが、彼と彼の幼なじみの女の子がそれぞれ母親の再婚相手に虐待されながら育った事、そして彼が叔父に引き取られた事、その後に幼なじみが亡くなった事は理解出来た。それから彼は眠れない日が続き、ふとした事から飲酒をするようになった…と、言っていたと思う。それが原因で救急車で運ばれた事がある、とも。

実の父を知らず、母に見捨てられ、心の拠り所だった幼なじみまで亡くしたシン。けれど彼の叔父は厳しく優しい人のようで、決して彼を見放さなかった。きっと、肉親の絆や愛情といったものを初めて与えられたのだろう。

そして今、彼の継父は何か大きな病気(おそらく癌)にかかり、病床に伏しているらしい。日本を発つ前、数年ぶりに顔を合わせたその継父から何か酷い事を言われ、シンは継父に掴みかかりたいような衝動に駆られた。

しかし、彼は思いとどまった。“どうせ死ぬから殴る必要も無い“と……。

継父は彼に何と言ったのだったか…そう…確か、子どもがどうとか言っていた。

“継父に言われて初めて知った“と。けれど、継父がーーーその子どもを?シンを?幼なじみの女の子を?ーーーとにかく、誰かに対して酷い侮辱をし、シンは激高した。

一体、子どもとは誰の事なのか、肝心な所が分らない。

私が眠りに落ちる直前、シンは何かを訴えながら泣いていたような気がする。

“あの気弱なさやねぇが命がけで産んだんだ、俺の子だと確信があったからに決まってる。”

ふと頭の中でシンの言葉が再現された気がしたが、私が理解するより先にそれはまた消えた。

シンの話に思考を巡らせつつ、物売りと牛と野良犬を避け、悪臭に耐えながら細い路地を抜ける。

唐突に目の前が開け、ガンジス川が姿を現した。

人が灰になって流される場所。ヒンドゥー教の聖地、ガンジス。

そしてこの川には町中の生活排水が流れ込み、人々は日々の洗濯をし、各々が自由に水浴びをする。

ガンジスは、ここバラナシの人達の人生そのものだ。

ずっと憧れていた景色の中に、今、私は立っている。

感慨深い気持ちでガンジスと対峙していると、シンがこちらに向けて軽く手を振りながら近寄って来ている事に気付いた。どうやら、現地の人達と一緒に喫煙していたらしい。

「リー、朝早いな。飯食ったか?」

シンのその言葉が耳に届いたと同時、私の腹部に雷が走った。

背筋を伸ばす事が出来ず、思わず前屈みになる。

「リー…?おい、お前、顔が真っ青だぞ。」

シンに返事をする余裕も無く、目に付いたカフェに駆け込む。目当てはドリンクでは無い………トイレだ。

小一時間後、私は青息吐息で宿のベンチに寝転がっていた。

自分のベッドに戻る余裕は無い。このベンチが一番トイレに近いのだ。

「あんだけ無防備にホーリーの色水まみれになってりゃ、口にも入るわな。インドの生水はえげつないくらい腹に来るぜ?」

ニヤニヤとした笑みを浮かべつつ、スポーツドリンクを差し出すシン。

「憧れのガンジス、ホーリー、下痢。インドフルコースじゃねぇか。良かったな。」

そう言うシンの目尻には、可愛らしい笑いじわが浮かんでいる。改めて顔を見ると、思っていたより幼い様だった。

「…シン、何歳ですか?」

腹痛から意識を逸らしたい気持ちもあり、何となくで質問をした。しかし、彼から返ってきた答えは驚く程に予想外のものだった。

「俺の歳?大学中退したての二十一だ。」

「ニジュウ…イチ…!!うそ!?私、ニジュウロク!!」

思わず上半身を起こすと、それが刺激になったのか十数回目の腹痛が私を襲った。

「まさかの年上かよ…。」

呆れるように言うシンの言葉をよそに、私はまたトイレに向かって駆け出した。

「頑張れー、生きる事は苦しむ事だぞー。たーんと苦しめー。」

やたら弾んだ声援と意地の悪い笑い声が、私の背中に浴びせられた。


インドで出会った親切で意地悪な年下の日本人は、その翌朝、荷物と一緒に居なくなっていた。

オーナーが、どうやら彼の身内に不幸があったらしく、朝一番に出て行ったと説明してくれた。

「それにしても…訃報が届いたって言うのに、気味が悪いくらい笑顔だったんだよね。最後までよく分らない男だよ。」

私に言うでも無く、オーナーは首を捻りながら独(ひと)りごちていた。

昼過ぎ、お腹の調子も落ち着いてきたのでゆっくりとベッドで過ごしていると、オーナーが新しいお客さんを連れて部屋に入ってきた。新顔さんと軽く挨拶を交わしていると、オーナーが床に落ちていたらしい文庫本を拾い上げながら言った。

「『悪童日記』…?日本語か。蛇喰さんの忘れ物だね。」

恰幅の良いオーナーは、前傾姿勢が辛いのだろう。本の表紙だけを摘まむ様な形で持ち上げると、文庫本のページの隙間から何かが落ちた。

見てみるとそれは、十一、二歳ほどの少女の写真だった。栗毛色の髪をした彼女は一見して泣いているのかと思ったが、それは眉をハの字にひそめているせいで、よく見ると笑顔だった。

私は、それはおそらくシンにとって大切なものなので、切手代は自分が出すから郵送してあげて欲しいとお願いをした。するとオーナーは、宿帳に書かれてる住所が本当かは分らないけれど、郵送する事自体は構わないと応じてくれた。ただ、インドの郵便事情は特段に悪いので、私が台湾に帰ってから投函した方がいいという話だった。

「後で封筒に宛名を書いて渡すよ。」

そう言いながらオーナーは写真を文庫本に挟み直し、私に手渡した。

受け取った文庫本は酷くボロボロで、ただ読むために持ち歩かれていると言うより、中の写真を守るために長い年月をかけてその姿になった様に思えた。


自分でも何故かは分らないが、私はその文庫本を手にしたまま少し泣いた。






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