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短編小説『蛸』



 べたついた海の香りは、潮風に乗って町中を支配していた。風は塩分を運び、ごみごみした小さな港町の至る所を錆び付かせる。ついには岸から離れたグラウンドまでやって来て、くるみの気分をジメジメさせるのだ。くるみはこのグラウンドで受ける体育の授業が嫌いだった。

 くるみの通う中学校では、体育の授業はグループに分かれて受けさせられる。ただ一人の友達である風香は、くるみとは別のグループだった。たくさん友達のいる風香にとっては、くるみが同じグループにいようといるまいと変わりないかもしれない。でもくるみにとっては死活問題だった。

「水田さん、なんでレシーブしないの。バレーする気ないならウチらの邪魔しないでほしいんだけど」

 くるみがミスをする度にクラスの女子達は狡猾なサメの様にかみついた。

 ぼーっとしてたわけじゃないよ。ボールの速さに、ついていけなかっただけだよ。

 そう思っても言葉がでてこない。威圧的な態度にくるみは口をつぐんでしまう。じっと地面を見つめる。そうしておかないと自分の足下さえも自分の居場所でなくなってしまう気がして。

 話せる相手もいないし、運動もできない。居場所がない窮屈さでくるみの胸はきゅーっと痛んだ。


 体育の授業が終わると、くるみは真っ先に風香にくっつく。

 風香はくるみとは正反対にクラスの中心人物だった。明るくて賢くて、いつも周りにたくさんの友達を従えていた。そして何より、一人でいるくるみに「おはよう」とか「どうだった」とか話しかけてくれるのだ。それだけでくるみはクラスに自分の居場所が出来た気がして、今日もなんとか生きていけるのだ。今にも消えてしまいそうになりながら。


 昼休み、クラスメイト達はお弁当を食べ始めた。くるみも風香の所へお弁当を持って行った。風香は他の女子達とすでにお弁当を食べていた。

「ねえ、私も、一緒に食べて、いい…」

「え、いいよ。もちろん。大久保さん、ちょっと向こうに詰めてあげて」

 風香はくるみを歓迎してくれた。ほっとしたその時、周りの女子達が顔をしかめたのを、くるみは見た。バレーの時一緒のグループだった女子達だ。それだけでもう、くるみは胸が苦しくなってしまった。もうここにいられなかった。

「あ…やっぱ、今日は、いいや。別の人と食べよかな…。はは」

「え、そうなんだ?変なの」

 風香に不思議そうな顔で見つめられながら、くるみは教室を出た。

 その日、くるみは一人体育館裏でお弁当を食べた。


 放課後。他のクラスメイトと会わない様に、裏手のシャッター通りから遠回りして帰る。そうまでして保身に走る自分のふがいなさが、くるみは嫌いだった。くるみをそうさせるクラスメイトの事も嫌いだった。この閉塞的でジメジメした港町の事も嫌いだった。しかしくるみは、そんなしがらみから抜け出す事が出来ない。明日も明後日も、来年も再来年も、くるみはこの町で人間関係におびえながら暮らしていくのだ。

 足が張り付く様に重いのは、地面が潮でべたついているからだけではない。歩いても歩いても、くるみの日常はこの町の小さな人間関係に支配されていた。その足取りはまるでくるみの足に吸盤がついていて、地面に張り付いているかの様だった。

 ああ。水族館の蛸だ、私は。狭くて暗い水槽の中に、幽閉されてる。いくらもがいても、そこから出られない。その証拠に、ほら。こんなに磯の香りがするというのに、ここからは海が見えない。この町はごみごみしていて、どこへ行っても見通しが悪いからだ。私もこの小さな町に閉じ込められた、かわいそうな蛸なんだ。

 こんな風に気分の沈んだ時、くるみはよく思い浮かべた。海の向こう、暖かい南の海の浅瀬で、ゆったりと漂う小さな蛸を。暖かい水色の日差しが蛸の体をなでるのを。そこでは何にも縛られず、何にも悩まされず、ただのんびりとした時間だけが流れている。

 どんなに辛いことがあっても、遠い海で優雅に浮かぶ蛸を思うと、くるみはこの錆びついた港町から解放される気がした。

 それが、くるみの毎日だった。


 家に帰るとお母さんが夕飯の支度をしていた。

「お帰り。はやかったね。今日のお弁当、どうだった?」

 お母さんはくるみがお弁当を一人で食べている事を知らない。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。お母さんに合わせる顔がなかった。うん、おいしかったよ。それだけ言うと、くるみは自分の部屋の戸を閉めた。ベッドに寝転がると一日の疲れがどっと押し寄せてきて、思わず長いため息が出た。ベッドに突っ伏したまま、くるみはずぶずぶと沈み込んだ。頭の中に蛸をゆらゆらと揺らしながら。


 蛸は、日によって異なる姿を見せた。ある日は昼の海でウツボから逃げていた。ある日は夜の海で岩陰に隠れていた。その健気で奔放な姿は、まるで本物の様に脳裏に浮かんでは消え、くるみの心を陶酔させた。この蛸が存在しない事なんてもちろん分かっている。しかし、その現実味を持って迫るイメージにいつのまにか愛着が湧いていたのも確かだ。それは頭の中でペットを飼っているのと同じだった。人がペットに対して愛情を持って接する様に、くるみもこの蛸に魅了されていた。くるみが辛い思いをするたびに蛸は現れ、くるみの悲しみを受け止めてくれる。なんだか私のもやもやを食べてくれてるみたいだな、とくるみはぼんやり考えた。



 ある日の事だった。

 廊下を歩いていたくるみは、珍しく一人で友達を待っていた風香と鉢合わせした。

「あっ水田さん」

 風香はいつも通り、くるみにも話しかけてくれた。

「あ、風香…。誰か、待ってるの?」

「うん。今度やる私の誕生日パーティーの話。どんな風にするか皆で話し合ってくれるんだって。よかったら、水田さんも一緒にどう?」

「え」

 記憶の中によみがえる女子達のあの怪訝そうな顔。でも、向こうからこんな誘いを受けたのも初めてだ。

「ふ、風香が言うなら、一緒に…」

 そう言おうとした矢先。

「お待たせー」と声がした。見ると、クラスの女子達。

「や、やっぱり、いいや。じゃ、私は、ここで…」

 だめだ。どうしても、一緒に居られない。自分を嫌っている人たちが同じ空間にいると思うと、もう逃げ出してしまいたくなる。なんで風香はあんな人たちと仲が良いんだろう。

 うつむきながら風香の元から立ち去ろうとした、その時だった。くるみの脳の裏側で、蛸が小さなサメを襲ったのだ。

「あっ」

「どうしたの?水田さん」

 少し不安げに距離を置く風香をよそに、蛸はぬるりとサメに飛びかかった。蛸の触手は胴体に絡みつき、そのままサメの顔を覆い、あっという間にがつがつと平らげてしまった。この出来事に一番驚いたのは他でもない、くるみ自身だった。サメは本来蛸の天敵のはずだが、空想の中ならそういうこともあるのかもしれない。しかしくるみは、蛸がくるみの手を離れ自分の意思を持って行動した様に思えて、少し不気味に感じた。この時初めてくるみは、あの小さかった蛸がいつの間にか成長して、少し大きくなっているのに気がついた。

 それ以降くるみは、蛸が本当に生きているような感覚を覚えるようになった。実際に海に居る蛸をテレパシーでのぞき見ている様な感覚。事実、くるみの想像を超えて、蛸は生々しく活発に動き出している。

 ある日から蛸は以前の様に波に漂わなくなった。どこかを目指して泳ぎだしているのだ。くるみにはそれが何を意味しているのか分からなかった。

 また別の日には蛸の居る海の様子が変わっていた。緑色に透明がかった海から、青っぽく濁った海へ移動している様だった。

 そうする間にも蛸はどんどんと成長し、大きさを増し続けた。すぐに普通の蛸よりも大きすぎるくらいのサイズになり、小さなサメを襲う事も頻繁になった。

 くるみは、だんだん怖くなった。


 そんな中、風香の誕生日パーティーの計画は女子達の間で着々と進んでいた。風香は友達が多いため、クラスの女子の殆どが招かれるという事。全員を収容できる様に、パーティーは風香の家で開催する事。各々が一つずつ、風香への誕生日プレゼントを持ち寄る事。くるみが招かれなかったのは女子達の根回しだろうか。とにかくクラス一の人気者ともあって、かなり大きな規模のパーティーになる様だ。風香は女子達とその話題で盛り上がる様になったので、くるみが風香と話す機会はなくなってしまった。

 しかし、くるみは密かに風香への誕生日プレゼントを用意していた。手作りのアップリケ。当日、パーティー会場の外に風香を呼び出して、こっそり渡すつもりだった。それはこの窮屈な人間関係へのささやかな反抗だった。


 パーティーも数日後に迫ったある日。頭の中の蛸は、突然漁船を襲った。

 網にかかって引き上げられたところを、船員にかみついたのだ。乗っていたのは日本人の漁師だった。彼らの顔に覆い被さった蛸は引き剥がそうとしても余計絡みつくばかりで、終いには船員の鼻にかじりつきもした。彼らはなんとか総出で蛸を引き剥がし、蛸は海の中へ逃げ出した。蛸は明らかに、何かの感情に突き動かされていた。

 しかし、さらなる事件はその日の夜に起こった。

 くるみが自宅のテレビに目をやると、ニュース番組に例の漁船が映っていたのだ。

「アッ」と、思わずくるみは小さく叫んだ。

『今日午前十時頃、○○県沖合で六人の船員が乗った漁船が大型の蛸に襲われ、うち一人が怪我を負いました』

 ニュースによると蛸はかなり大型で、人間を襲うのは珍しい事例らしかった。流れてくる情報は全て、まさに今朝十時くるみが頭の中で目撃した一部始終と同じだった。

 くるみは混乱した。蛸は、実在したのだ。くるみは、ずっとどこかで生きている蛸を見ていたのだ。漁船が襲われた○○県はくるみの住む港町から遠くない。これから何が起こるのか、くるみには予想も出来なかった。



 そしてついに、風香の誕生日パーティーは当日を迎えた。その日の放課後、女子達はそろって風香の家へついていった。一人残されたくるみも一度家へ帰ってから、アップリケを持って風香の家へ向かった。

 風香の家は海から見て学校の奥にある。いつものシャッター通りを逆向きに進むにつれて、くるみの心臓はどきどきと脈打ち始めた。

 女子達に隠れて風香にプレゼントを渡す事は、くるみにとってしがらみを取り払う事と同じだった。このまま窮屈な人間関係とも、錆び付いた港町とも、そして弱虫な自分とも、さよなら出来そうな気がした。風香の家がもうそこの角に見える。緊張と期待が入り交じって、くるみの心はかつて無く高揚した。

 家の正面まで来ると、中から楽しそうな声が聞こえて来る。くるみは、意を決してインターホンを押した。


「あれ、水田さん。来ちゃったんだ」

 果たして、扉を開けて出てきたのは、クラスの女子だった。

「え」

 てっきり風香本人が出てくる物だと思っていたくるみは、予想外の出来事に困惑した。

「うわ、もしかして、風香にプレゼント持ってきたとか?」

 気づかれた。くるみの顔がサッと青ざめる。

「ねぇ、水田さん。あんた、風香になれなれしすぎない?今日だって、パーティーに呼んだ覚えはないんだけど」

 くるみは地面を見つめるより仕方が無かった。

「それに、そんなに親しくもないのに、風香風香って呼び捨てにして。気持ち悪いよ。あれウチらの真似してるつもり?風香も、水田さんは距離感近くてちょっと苦手、ってさっき言ってたよ」

「えっ?」

 足下から崩れ落ちてゆく感覚にくるみは襲われた。風香は、くるみの事をなんとも思っていなかったのだ。がたん、と頭のヒューズがとんだ様だった。

「私、パーティーの最中だし、早く戻りたいんだ。そろそろ行ってくれないかな」

 家の中から、風香の笑い声が聞こえて来る。自分の居場所なんて、どこにもなかったんだ。くるみは押し潰された。クラスメイト達に。この町に。この世界に。

「くっ、あああっ、ぐぅ」

 くるみは今にもこらえられず、泣き出してしまいそうだった。もうこのまま、死んでしまいたかった。目の前が、真っ暗になった。



 その時だった。
 
 巨大な蛸が上陸する姿を、くるみは確かに見た。

 全長十メートルを優に超える蛸。その怪物は何の前触れもなく波間から姿を現し、漁港に上陸した。小型漁船はいとも簡単になぎ倒された。その場に居た人々はあまりに突然の出来事に絶句する事しか出来ない。

 蛸はそのまま進軍し、建物に巻き付いた。あっけなく錆びた鉄骨はねじ曲げられ、コンクリートはばらばらと音を上げて崩落する。住民は皆その雪崩に巻き込まれた。人々の混乱をよそに、蛸はごみごみした建物群を破壊しながら進む。進路上の物は、何であろうと蛸の餌食になった。それは逃げ遅れた人々も例外ではない。町は、一瞬にして阿鼻叫喚の巷と化した。

 この町の例にもれず、風香の家からも海は見えない。そのため、何が起こっているのか住民達には把握できなかった。ただ、建物の崩れ落ちる音と、時折聞こえる悲鳴が、潮風に乗ってやって来るだけだ。女子達も事の異常さに気づいたのか、パーティーは中断され、皆おもての様子をうかがっている。くるみだけは気づいていた。蛸が、まっすぐにこの場所を目指して進んでいる事を。

 蛸はついに学校までやって来た。屋上までよじ登ると、その手が、足が、吸盤が、生々しく校舎に巻き付き、同時に蛸自身の重みで、二階、一階と、順に押し潰していった。くるみの教室も、跡形もなく消え去った。ゆっくりと崩れる学校の奥にゆらめく吸盤を、風香達はこの時初めて目撃した。



 蛸は、全てを食らい尽くした。

 くるみの目の前で、風香の家は潰された。プレゼントも、ケーキも、女子達も、皆あっという間に食べられた。おめかしした風香が、逃げようとしたところを吸盤に貼り付けられ、触手に巻き付かれて砕かれるのを、くるみは見た。


 かくして、くるみの小さな世界は、すべてきれいさっぱり消え去ったのだった。不思議と、くるみだけは襲われなかった。

 それを見てくるみは、恐怖すると同時に、不思議と夢を見ているような気分になった。

「ふふ、ふふふ」

 動くもののなくなった景色を見て、くるみは一人笑った。すうっと肩の荷が下りるのを感じた。もう私を縛る物は何もないんだな。ああ、明日から何をして過ごそうか…。


 蛸がなぎ倒して来た瓦礫の向こうに、いつもは見えなかった水平線が見えた。


 海はのんびりと、果てしなく広がっていた。



おしまい

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