オラクル・デイ

休日にプラネタリウムへ行った。
プラネタリウムのドームには様々な天体が映し出され、それぞれの天体の特徴を説明するナレーションが流れていた。
その天体ショーを見ていたとき、私は左眼に違和感を感じた。
それはゴロゴロとした痛みに変わり、涙がぽろぽろこぼれ、私は左眼をあけていることができなくなってしまった。
プラネタリウムから出ると私はそのまま近くの眼科へ向かった。
先生に診てもらうと、瞼の裏に何個か結石ができている、ということだった。その結石が、眼を閉じる度に角膜に当たって痛みを引き起こしていたのだ。先生は私の瞼を器用にひっくり返し、点眼タイプの麻酔をすると、ピンセットのようなもので結石を一つ一つ取り除いていった。
処置が終わると先生は、これで大丈夫、と言ってガーゼに取った結石を見せてくれた。
結石というから角ばったきらきらした石のようなものを想像したが、
それは石というより、肌からとれる小さな角栓に見えた。


翌日は早番だったので、5時に起きて仕事へ向かった。
私は電車に乗ると、空いている席に座り、持っていた本をひらいた。

―自己とは何か。われわれがそれを生活の中で考えるとき、
途方もなく強大な圧力にあえぎ、今にもおしつぶされそうになっている小さな粒を想像するかもしれない。一メートル数十センチの高さの肉体を持つ人間が、たとえどのような権力をもとうとも、この宇宙全体から見るならば、まったくとるに足らぬ小さな泡と同じほどにその個体は小さく、すぐにも消えてしまう運命にある。 
だが、インドの精神的伝統は、泡のように見える人間の一つの個体を、宇宙全体と比較し得るものと考えた。つまり、本質的にはこの宇宙の根本原理と同一であると主張してきたのである―

私は眠気を感じ始めた。
私の目は、開店前のパン屋のシャッターのように中途半端に開かれていた。
半開きになったその重いシャッターを、誰かが背負い、一生懸命持ち上げようとしている。

私の職場は都内の公共図書館だった。
私の担当は、6大新聞すべてに目を通し、市に関する記事を見つけるというものだった。
この作業を朝刊と夕刊の一日2回行うのだ。
朝刊の作業をしているとき、紙面の12星座占いが目に入った。
私は自分の星座の欄をさりげなく眺めた。
「仕事量が多すぎます。バランスを考えましょう。」とあった。

朝はまだ平気だったが、その後閲覧カウンターでの接客や配架をこなしているうちに夕方には電池切れ寸前のロボットのようになっていた。
夕刊のチェックでは、紙面の文字は全く意味をなさないものとして私の目を次々と通過しこぼれ落ちていった。
こうして私は市に関する記事を一つ見落としてしまった。
だが、二者確認をしてくれたTさんは怒ることもなく、見落とした記事のことを教えてくれた。

その日の帰り道、職場のMさんと一緒になった。
Mさんは不思議な男だった。
私が仕事で、たとえば事務室で何かを探してうろうろとしていたりすると、どこからともなく現れて、探している物の場所を教えてくれるような人だった。
そしてそれは私に対してだけではなく、皆に対して彼はそういう人だった。
彼には実は目が2つ以上ついているのではないか、と私には思われた。
駅のホームで一緒に電車を待ちながら、私はプラネタリウムに行った日の出来事をMさんに話した。
もちろん、結石のことについても。
するとMさんは少しかがんで私の左眼をのぞきこんだ。
「そう言われてみれば少し赤いかもしれませんね。」
その瞬間、到着した電車が私たちの横を通って風が吹きつけた。
駅員のアナウンスと電車の走る音に混じってMさんが言った。
「実は、僕は鬼太郎に憧れているんです。」
私は少し考えてから、
「鬼太郎ってゲゲゲの鬼太郎ですか?」と聞いた。
Mさんは嬉しそうに頷いた。

自宅のある駅に到着し改札を出ると、陽はもうすっかり暮れていた。
8月の東の空に大きな満月が輝いていた。


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