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ファミリー・レストラン

ようやく9月に入って、私は髪を切りに行く。
夏のあいだに髪はすっかり伸びてしまった。通っている美容院の予約がなかなか取れず、伸びきった髪のまま8月を過ごした。

私の髪には癖がある。父の髪質が見事に遺伝したのだ。
小学校を卒業するまで、私の髪は直毛だった。
直毛だった私はよく父の癖毛をネタにして笑った。
そこには何の悪意もなかった。
私の髪は直毛のはずだった。
けれど中学校へ入ると、私の髪にも父と似た癖が出はじめた。
放っておいてもそれなりに形になる癖ならまだよかったのだが、私の癖はそうではなくて、中途半端にところどころがうねったりはねたりして、バランスが取れてなくて、そこそこ美しくなかった。
それはやがて思春期における悩みの種のひとつになった。

自分で働いてお金を稼ぐようになると、美容院でストレートパーマをかけるようになった。
それでも髪がのびて癖が出てくると、ブラシのついたドライヤーで必ずまっすぐにブローしてから出かける。
しかし駅までの道を歩き、朝のラッシュに揉まれ、駅から職場までの道を汗をかきながら歩くと、私の髪の癖はほぼ復活していた。

何にしても、そのような日々とは今日でおさらばだ。
美容院の椅子にすわり、まず伸びきった髪を肩の上まで切ってもらう。
それから、毛のたんぱく質の配列をゆるめる薬剤をつけ、しばらく放置してから、洗い流す。その後乾かして、ヘアアイロンの熱を加えて毛をまっすぐにする。それからまっすぐになった毛のたんぱく質を固定する薬剤をつけてしばらく放置して、また洗い流す。
私の髪は別人のようにまっすぐになった。
美容師が大きめの鏡をひろげて後ろに立ち、私の新しい頭を360度見せてくれた。

私は生まれ変わったような気分だった。
美容院のガラスのドアをあけて一歩外へ出た時、切りたての髪が風に吹かれてさらさらとなびいた。
残暑の日射しがまだきつかったけれど、私にはもう心配することなどない。

午後1時を過ぎる頃だった。
お腹がすいていたので近くのイタリアン・レストランへ入った。
夏休みはもう終わったはずだが、想像以上に店内は混みあっていた。
家族連れが多く、あちこちで子供の声が交錯している。
混んでいるにも関わらず、私は4人掛けのテーブルに案内された。
腰かけたすぐ後ろの壁には、ほおづえをついた天使の絵が飾られていた。

私は無性にピザが食べたくなった。
マルゲリータのピザを一枚注文した。一枚のピザを一人で食べるのは生まれて初めてだった。
しばらくすると、ウェイターが忙しそうにピザを運んできた。
私は湯気の出ているそのピザを、ピザカッターで十字に切ると、少し皿を回してもう一度十字に切った。

「あちちだよ あちちだよ」
隣のテーブルの、ベビーチェアに座らされた小さな子供が、覚えたばかりの言葉を母親に向かって何度もくりかえしていた。
「そうだね、あちちだねえ」
母親はそう言いながら、ドリアをその子のために小皿へ取り分けてやっているところだった。
私はピザを手にもつと、やけどをしないようにそっと口へ含んだ。
うん、ピザは思ったよりも熱くはない。
と思ったその時、口からはみ出したチーズがでろり、
と生地をおいてすべり落ちそうになり、それを防ごうと咄嗟に頭を動かした瞬間、髪の毛にチーズがべとりと絡まった。
どこかで子供の笑い声が起こった。


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