正しさと合理性 -現在から過去を見るとき-

ここ数日、旧帝国軍が合理的だったかどうか、大日本帝国の対米戦は非合理的な決断だったのかなどについて、いくらか勢いでつぶやき、明らかに行き過ぎた発言があったため、ここで現段階の自分の考えをまとめておきます。

まず、対米戦が大失敗だったことは火を見るよりも明らかです。

300万余りの軍人軍属民間人が死亡し、100万を超える将兵が南方のジャングルで戦闘ではなく飢えて病に倒れ死んでいき、主要都市は焼夷弾で焼き払われ、広島長崎は原爆で焼かれ、満州ではソ連軍に民衆が蹂躙され、千島列島や南樺太では降伏文書調印後も悲痛な戦闘が行われ、戦後はGHQによる日本統治やソ連によるシベリア抑留など辛酸を舐めました。

この結果を見れば、少なくとも日本という国や国民にとって「正しい」選択だったとはいいがたいでしょう。

ではそれら大日本帝国の施政者たちがした選択は「非合理的」な、理屈が通らないものだったのでしょうか。

当時の大日本帝国の政権を運営してた人達は、現代の一市民に過ぎない私よりも馬鹿で愚かで間抜けだったのでしょうか。

ここで例を挙げてみましょう。

ロシアのプーチン大統領は2022年2月24日、ロシア軍に命令を下し、ウクライナに全面侵攻しました。

その結果、ウクライナは抵抗しその侵攻を食い止め、戦争が長期化し、欧米や日本がロシアに厳しい経済制裁を行い、国際司法裁判所がプーチン個人に逮捕状を発行し、戦争に敗北しないために部分動員を行わざるを得なくなり、プーチンの政治生命を危険にさらし、私兵の反乱すら招きました。

国連憲章から見ても、ロシアという国や国民から見ても、プーチンという個人で見ても、この結果は「正しい」とはいいがたいでしょう。

しかし、ではプーチンは馬鹿で愚かで間抜けだったのか(間抜けではあったかもしれない)。

プーチンは20年以上ロシアの最高権力者として君臨し、一定の成果を挙げてきた人物です。
決して馬鹿とは言えないでしょう。

であるならば、その決断には一定の合理性があったと推定するほうが自然ではないでしょうか。

もう一方の例を挙げてみましょう。

ウクライナのゼレンスキー大統領は、ロシアが全面侵攻し、首都キーウが半包囲される中、首都から決して離れませんでした。

首都にいることを内外に示し、国民を鼓舞し、徹底抗戦を呼びかけました。

結果、それは「正しい」決断でした。

ウクライナ軍およびウクライナ国民は徹底的に抵抗し、首都への侵攻を阻止し、ついにはロシア軍を撤退に追い込みました。

しかし、その決断は「合理的」だったのでしょうか。

IFの話をしてみましょう。

ウクライナ軍およびウクライナ行政府が、2014年のクリミア侵攻の時のように、ろくに抵抗もせず、裏切り、逃亡し、降伏し、首都が陥落していたならば、ゼレンスキーは街頭に吊るされ、彼の妻と娘はその尊厳を破壊されたのちに殺されたでしょう。

そうなったとき、私たちは彼の首都に残るという決断を、合理的で正しい決断だったと評価できたでしょうか。

少なくとも私は、ロシア軍の猛烈な進撃の中、彼が首都に残る決断をしたことを、合理的なものだとはみていませんでした。

2014年のウクライナとウクライナ軍の実績から鑑みて、裏切り者が続出し、首都キーウが短期間に陥落する可能性は十分に高いとみていました。

また、例え裏切り者が十分に出なかったとしても、2014年のロシア軍による東部侵攻において、ウクライナ軍は善戦していたとはいいがたいものであったことから、最終的に押し切られるとみていました。

その予想は(素晴らしいことに)外れ、深刻な裏切り者は出ることがなく、ウクライナ政府は機能し、ウクライナ軍はロシア軍を撃退しました。

では、この結果はゼレンスキーにとって自明なものだったのでしょうか。

首都に残るという決断をすれば、奮起したウクライナ軍とウクライナ国民がロシア軍を撃退すると確信できるような情報があり、理性的に決断を下したのでしょうか。

もちろん、ゼレンスキーはウクライナの大統領であり、ウクライナ国民であり、はるか遠くの日本にいる私よりもずっとウクライナ政府と軍と国民についての情報や肌感覚は正確でしょう。

しかし、南部のハルキウ州においては裏切りや職務放棄が続出し、あっという間にロシア軍の手に落ちました。

また、ロシア軍は世界有数の強力な軍隊だと少なくとも2022年2月24日までは見られていました。

このことからも、キーウ周辺のウクライナ行政府職員ならびにウクライナ軍が裏切ったり職務放棄したりせずに果敢にロシア軍に立ち向かい、さらには撃退しうると、合理的に確信できるとは言いがたいと思います。

ゼレンスキーは国家元首である大統領ですから、その国家に対する責務から職務に殉じるというのも、ひょっとしたら一つの合理的な考えかもしれません。

しかし、家族もその職務の巻き添えにするとなったとき、その決意を揺るがせずにいられるでしょうか。

自身の生命と家族の幸福を考えたとき、職務に殉じ家族をそれに巻き込むという決断を「合理的」とみることはできるのでしょうか。

少なくとも、ゼレンスキーの決断が合理的であると確信をもって断言することは難しいのではないでしょうか。

以上の二つの例から言いたかったことは、過程の合理性は結果の正しさを担保しないし、結果の正しさは過程の合理性を担保しないということです。

正しいから合理的ということはなく、合理的だから正しいわけではないのです。

特に、何が正しかったかがわかる現在から、それがわからなかった過去を見るとき、そのことに留意する必要があります。

大日本帝国の施政者たちの決断が、大失敗を招いたことは疑いようのない事実です。

しかし、その結果から逆算して彼らが馬鹿で愚かで間抜けで非合理的な決断をしていたという前提を置くよりは、一定の合理性があったとひとまず仮定して考えたほうが、より正確に史実をとらえ、より正確な教訓を導くことができるのではないでしょうか。

もちろん、子細に検討したら、やっぱり彼らは馬鹿で愚かで間抜けで非合理的だったと結論付けられるかもしれませんけれど。


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