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白山文彦について〜立志編〜

このエントリは次のエントリの続編である。

光明

Dちゃんは実業家になっていた。
大学を中退したDちゃんは、京都大学とオムロン等が中心となって行われたとある産学官連携プロジェクトに単騎突撃し、博士や優れた研究者がゴロゴロいる中でただ一人最終学歴高卒から研究員になった。彼がいかに卓越した技術者であったかが伺える。その国プロジェクトは一定の成果物を完成させたあと解散となったが、中心的な人物たちが結集して法人化した。その成果物を使ってビジネスをするためだ。彼は取締役共同創業者となった。

僕に与えられた役割はいわゆるQA(Quality Assurance = 品質保証)エンジニアであった。そういうと聞こえは良いが、僕はもちろんテストケースの洗い出しなどやったこともない。単にリグレッションを検知するアルバイトテスト要員である。Dちゃんが初日に言ったセリフはこうだ。
「お前は椅子に座って2ちゃんねる見ててくれたらいいから」
諸君、持つべきものは取締役の友人である。

毎日必要なテストをこなしつつ、空き時間にネットサーフィンして過ごす平穏な日々が続いた。しかしこれで良いのだろうか…?Dちゃんが取締役を辞したら僕はただの穀潰しである。そのとき、ある光景が目に止まった。社長が一人でLANケーブルを床に埋めているのである。これだ、と思った。

職業「エンジニア」へ

その会社の主力製品はP2P通信アプリケーションであった。スタンドアロンなGUIアプリで、Java Swingのお陰でWindowsでもMacでもLinuxでも動いた。これは当時大変に画期的なことで、プログラマがC++で各プラットフォーム毎に一生懸命開発する代わりに、当時最新鋭のオブジェクト指向言語Javaで開発を行っていた。そう、Javaが最新鋭の象徴だった時代の話なのだ。とにかく花形プログラマはこぞってGUIプログラミングに従事していたが、誰もサーバ管理やネットワーク管理をやりたがらなかったため仕方なくこれをすべて代表取締役がやっていたのである。人がやらないことをやればクビにならないのではないか…?そう思った僕は社長と話し、ネットワーク管理をやらせてもらうことになった。同時に勉強のために中古のノートパソコンにLinuxをインストールし、自宅サーバを始めたのだ。これは人生で最良の選択のひとつであった。
僕はたちまちフリーで型落ちPCでも軽快かつ堅牢に動作するLinuxに魅了され、サーバ管理は僕が最も得意であり大好きな仕事になった。同時に、僕は会社のすべてのサーバとネットワークを把握した唯一の人間となり、絶対にクビにできない存在となって正社員登用された。この当時、出たばかりのAWSのEC2を触って驚愕したのを覚えている。当時のEC2はEBSを持っておらず、インスタンスを停止・再起動させるとストレージの内容はすべて消えてなくなった。そんなことがあっていいのかとレンガで頭を殴られたような衝撃だった。永続化したい情報はS3なりRDSなりを使いなさいよというのは15年も前から徹底されていたのだ。すべての操作がHTTPベースのAPIで公開されているというのもまた衝撃だった。僕は早速家に帰り、自宅サーバにXenをインストールしてインスタンスを上げ下げするコマンドをラップした簡単なHTTP APIを作った。MIDI投稿サイトのために中学生でプログラミングを始めた白山少年が、10年の歳月を経て再びプログラマに戻ってきた瞬間であった。以来、インフラエンジニアとしての仕事が暇なときは会社のアプリのちょっとした変更やウェブサービスの開発を片手間でするようになった。

運命の出会い

僕には運命の出会いが2つある。そのうちのひとつがAndroidだ。2010年、今で言うGDGの活動の一環で、Googleの現役ソフトウェアエンジニアが3人ぐらいAndroidの実機を持って京都くんだりまで来てハッカソンを開いてくれたのだ。これに参加するために僕はドコモショップでHT-03Aという当時日本で唯一売られていたAndroid携帯を購入した。当時のバージョンはAndroid 1.6、API Levelはなんと4である。当時働いていた会社のお陰で、Javaを使ったGUIアプリ開発は親しみやすかった。僕はたちまちAndroidアプリ開発の魅力に取り憑かれた。

もうひとつの運命の出会いが妻である。妻とは某同人誌即売イベントで知り合い、色々あって交際するようになった。この2つの出会いが、僕を東京へと導くことになる。

再びの大学生活

気がつけば僕がDちゃんの会社に来てから5年が経っていた。しかし会社は経営体制で揉めていた。簡単に言うと、リスクを取ってでもIPOを目指すような大胆な経営をするのか、それともこのまま中小企業として安穏と暮らすのか、ということである。会社は順調に成長しており、売上も数億円立っていた。保守派の意見としては、これの何が不満なのこれでいいじゃないということだ。しかし受託中心のビジネスモデルでは一生中小企業で終わってしまうという失望があり、経営陣でひと悶着もふた悶着もあった結果、Dちゃんは会社を去ってしまった。

この急展開は僕を混乱させた。気付けば僕も26だ。5年間ずっと年収300万。ストックオプションもない。僕の出自を考えれば、この待遇は仕方のない面もある。なにせ大学中退博徒上がりの見習いなのだ。しかし5年の歳月が経ち、僕は自分で言うのも何だがサーバ管理もネットワーク管理もウェブプログラミングもGUIプログラミングもそれなりにできるようになった。何かを変えなければならないタイミングだった。宙ぶらりんになった僕は将来に悲観的になり、せめて大学を出ておけばよかったなーと思うようになった。それである日思い立って母校の教務課に行ってみた。

「あの〜、昔中途退学した者なんですが。単位一応ちょろっと取ってるじゃないですか。これって他学に行った場合に引き継げたりするんですかね?」
「出来ますよ。ていうか君は本学に復学もできるよ。5年以内は無試験でね。え〜と、あ、2週間後に丸5年になるね😅」
復学します

僕は思わず即答していた。今更大学を卒業したところで、新卒至上主義のこの国で特に将来の展望があったわけでも、学費のあてすらあったわけでもない。けどこのめぐり合わせは運命としか思えなかったのだ。そんなものは後からついてくる、学資ローンでも何でも借りればよい、まずはこの縁を大切にしようと思った。
そういう訳で26歳で再びの大学生活を送ることになった。学費は貯めていたお金、アルバイト掛け持ち、親にも事情を話して多少の援助をお願いするなどして大学生に戻ることができた。特に、1回職業プログラマになったあとなので非常に割の良いバイトを紹介してもらうことができた。いまでも感謝している。

復学してから卒業するまでの1年半は本当に楽しい時間だった。僕は純粋に学問に打ち込むことができた。不思議なもので、大学は中途退学する前からずっとそこにあって変わらない講義を提供しているのだ。変わったのは僕の方なのだ。大学生活は本人の態度次第で有益にも無益にもなるという当たり前のことを身にしみて実感した。
卒業した僕は、将来をどうするか再び考えていた。妻との交際も2年近くになり、この関係をより発展させるかどうかを考えると東京に行くのが良さそうだと結論づけることになる。次回、東京編につづきます。

完結してないじゃん!

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