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白山文彦について〜東京編〜

このエントリは次のエントリの続編である。

雪、無音、古刹にて

僕は京都、妻は東京なので休みを見つけては行き来しつつ遠距離交際は2年ほど続いていた。京都は妻のお気に入りの観光地であったため、のべ10年ただ無為に過ごした僕よりも妻の方がよほど京都に詳しかった。妻はよく「君の体は京都にあるけど、君は京都に『住んで』はいないね😅」と呆れたものだった。僕が知っている京都の観光地はマーチャオ京都駅前店、向日町競輪場、そして淀競馬場だけだったのだ。(余談だが、ディープインパクトの菊花賞は淀まで観戦に行った。僕は記念馬券にディープインパクトの単勝を1000円買い、そのまま残してある)

ある冬、西京区の古刹・善峯寺へ妻を後ろに乗せてバイクで向かった。市内は晴れていたので油断していたが、山に入ると昨夜の積雪が路面凍結しており、タイヤを取られた僕たちは時速5km/hでスローモーションのように地面に転がった。妻の無事を確認したあと、僕らは道路に転がったまま笑いながら、もしかしたらこの人と結婚するかもしれないと唐突に思った。こうして僕は卒業後の進路を東京に決めた。

渋谷梁山泊ミクシィ

東京で働くことを心に決めた僕は、技術系コミュニティ活動を通じて知り合ったYさんのリファラルで株式会社ミクシィを受けられることになった。詳細は省くが、僕は面接を突破し入社オファーをもらうことに成功した。
(ここで、博徒上がりがいきなり東京の上場企業にオファーをもらうなんて幸運が過ぎるのではないかという意見がありそうだ。たしかに幸運だった。しかし僕はここにある程度の再現性を見出している。これはITエンジニアを目指す未経験者にとって興味深い内容になると思うので、後日別エントリにしたい)

株式会社ミクシィで働けたことは僕の生涯で最大の幸運のひとつだった。ミクシィは、現在でこそ大ヒットゲーム・モンスターストライク家族アルバム みてねなどで知られる会社かも知れないが、我々の世代にはソーシャルメディアmixi.jpという我が国のインターネット史における記念碑的サービスの運営会社して記憶に残っている。mixiは招待制ソーシャルメディアの先駆けであり、閉じた友人間での心地よい距離感のコミュニケーション、足あとから始まる偶然の出会い、日記にコメントを貰ったときの赤字通知など、当時の若者たちのインターネットコミュニケーションに多大な影響を与えた。mixiがサービススタートした2004年はちょうど僕の大学生活とオーバーラップしており、当時大学生でmixiをやっていない者など存在しなかったのだ。そのようなサービスに自分が開発者として関わることができるのは、映画の中の登場人物になるかのような気持ちだった。

ミクシィで得たものは数多くある。まずは優秀な同僚。入社当日、僕は歓迎ランチに誘われた。その時の会話はこうだ。
「白山さんはAndroidお詳しいらしいですね」
「ええ、多少」
「Android RuntimeのGCは標準JREのGCとどのように違いますか?」
「入社初日に面接やめていただいていいですか…」
なお、横で聞いていた新卒氏(修士論文はガベージコレクション)に正解を回答してもらうという屈辱まで味わうことになった。

ミクシィはなぜ自分が入社できたのか不思議で仕方のないほど優秀な技術者で溢れていた。mixiは当時日本最大級のユーザ数とトラフィックを誇るサイトのひとつであり、DBのレコード数も秒間アクセス数も僕がこれまでの人生で関わった規模をふた周りも上回っていた。しかしながら、規模の大小がミクシィをミクシィたらしめていたのではないように思う。そこには確かに何か違った匂いがした。ミクシィにはハッカーが集まっていたのだ。これはライブドアやDeNAなどを含む当時の渋谷系ウェブ企業の特徴で、そこは技術にひたむきで求道的な凄腕の集まる梁山泊であった。
僕はこの優秀な同僚たちと毎日ランチに出かけては、なぜmixiがこのようなアーキテクチャであるのかとか、なぜこのように組んではスケールしないのかと言ったことを無料で講義してもらった。大学で計算機科学を学ばなかった僕は、まさにミクシィ大学によってこれらを身につけることになった。計算オーダーやメモリとのトレードオフも、DBの分割ストラテジも、ユニットテストの書き方も、コードレビューのやり方さえここで初めて学んだ。ミクシィで身に付けた知識は、その後の白山青年のエンジニア人生を生涯に渡って支える財産となった。

順調な東京生活

プライベートではミクシィ入社直後から妻とは同棲し、1年ほどかけて音楽性に違いがないことを確認したあと、義両親に婚約の挨拶に向かった。義父からはたった一言「白山くん。返品は、不可だよ😌」
そのまま妻と金環日食の朝に結婚し、東陽町に家を買い、1年後には赤ん坊が生まれてきた。人生が大きく加速していた。白山青年は30歳になっていた。

その後白山青年は何度か転職を重ねながらキャリアアップしてゆくこととなる。新規事業をイチから作ったり、人生二度目のスタートアップ(ジョースター家とDIOの因縁のように、ここにもDちゃんが登場する。この話も面白いので別エントリにしたい)にジョインしたり、初めてシニアエンジニアとして開発チームを束ねたりと、博打から足を洗って27歳から再スタートを切った遅咲きとしては順調にエンジニアキャリアを積み上げていくことができた。また、業務外でもAndroidやユニットテストなど自分の専門性の高い分野で勉強会を開いたり記事を寄稿するなどして、技術系コミュニティでも少しずつプレゼンスを出せるようになってきた。
それらひとつひとつがワイン1本をゆっくり空けながら語り明かせるほど珠玉の思い出ばかりなのだが、ここではそれらは思い切って省略する。またどこかでお話しできる機会もあるだろう。

豪州島からの手紙

何社目に勤務中だったかもはや忘れてしまったが、僕は申し分のない充実したエンジニアライフを満喫していた。ある朝、英語のメールを受信していることに気付く。

やあ、AtlassianのJohnだ。AtlassianはAndroidアプリの開発エンジニアを求めている。弊社シドニーでのAndroidロールに興味はないか?

この突然のメールに僕は狼狽した。Atlassianといえば、あのJIRAやConfluenceで有名な法人向けソフトウェア開発企業だ。一体どこから僕を見つけてきたのだ…しかしシドニーだって?オーストラリア?か、考えたこともないぞ…
しかし混乱しつつも僕はどこか心躍るような気持ちを抑えきれずにいた。海外か、悪くない。僕は思い切ってAtlassianの選考を受けてみることにした。どうするかは受かってから考えればいいのだ。

選考はまずtake-home testという形で、プログラミング課題を提出することになった。ここではAtlassian社のチャットアプリを極度に簡略化したようなサンプルアプリの仕様書と未完成の実装が与えられるので、そのごく一部を仕様に従って実際に実装してみよ、というような課題だった覚えがある。
ここで僕は求められているよりも遥かに広範なUIもビジネスロジックも含む大改修を施し、ユニットテストまで追加して翌日に提出した。HR担当者とそのコードを見たHiringチームは痛く感激し、電話面接をひとつ飛ばしていきなり最終面接を受けられることになった。最終面接はペアプログラミング形式で、テスト用のアプリに意図的に散りばめられた罠をかいくぐりながら一つのアプリを時間内に完成させるというものだった。ここで僕はひとつ致命的なミスを犯し、ついに最後まで面接官の曇った表情を晴れさせることはできなかった。結果は不採用。白山青年、初の海外チャレンジはほろ苦い結果となった。

しかし、この時僕の中で何かのギアが切り替わる音が確かに聞こえた。英語とプログラミング。これまで黒塗りだった地図に急に光が差し込み、道が見え始めたような気持ちがした。これは僕の人生を切り開く新しい活路になるかもしれない。次回、海外挑戦編に続きます。

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