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白山文彦について〜海外挑戦編〜

このエントリは次のエントリの続編である。

エンジニアと英語

Atlassianの一件があってから、どれほど満たされたエンジニア生活を送っていても僕の心の中には常に「海外でソフトウェアエンジニアに挑戦したい」という情熱がずっと消えない日焼け跡のように燻り続けることになった。

英語を使って働いてみたいという思いを抱いたのは初めてではない。
これまでのソフトウェアエンジニア人生を通じて、僕は常に若く聡明な同僚たちに対する劣等感に苛まれてきた。かたや幼少期から一度の回り道もすることなく大学で情報科学の門を叩き、複雑な確率論だの組合せ論だのを何年もかけて研鑽してきた英俊たち。対するこちらは何も考えずに京都の名門動物園の門をくぐり、貴重な20代前半をパチンコ屋と雀荘の煙の中で大当たり確率だの両面待ちの組み合わせでロンだの言って過ごしてきたゴロツキである。土台勝負になるはずがないのだ。

一方、僕が二度の大学生活を通して身に付けた英語は意外な武器であることにも気付かされた。職場で外国籍のメンバーとやり取りする時や海外のカンファレンスに参加した際に、あれほど聡明な同僚たちがまったくしどろもどろになってコミュニケーションに破綻をきたす様子を見るにつけ、なるほど僕は自分で認識しているより重要な「彼らの持っていない能力」を有しているのかもしれないぞと思ったものだった。もしかしたら英語が必須の環境では、英語力と技術力のどちらか出来ない方でエンジニアとしての総合力にキャップがかかるのではないか。

engineer = min(English, Tech)

つまり、仮に僕が英語力50点・技術力50点だった場合、英語力20点・技術力80点の人より活躍できる可能性があるのではないか。
後に、実際の海外のソフトウェアエンジニア事情はこれほど単純ではないことが判明するのだが、この「発見」は当時の自分を勇気づけた。

Boston Tea Party

転機は再び春の雷鳴のように突然訪れる。
知り合いの働いているボストンのスタートアップから、Sr. Mobile Engineer を募集しており興味はないかという連絡をもらったのだ。
チャンスはいつだって急にやってくる。そして、素振りをしている奴だけが一発でそれを打ち返せるのだ。Atlassianの一件以来毎日30分の英語学習を続けていた僕は、自信を持ってこれに臨むことにした。

インタビューの前に、僕はその会社のアプリを実際に入念に使ってみて、それからそのアプリの簡易版を自分で実装してみることにした。Geofencingを使ったイベントトリガやバックグラウンドの長命な処理などいくつか特徴があり、実業務で対峙するであろう難所が手に取るように見えてくる。

これは後に分かることだが、アメリカのテック企業は規模の大小で面接に傾向の違いが見て取れる。僕が個人的に体験した範囲では、ビッグテックと呼ばれるような企業ほど「アルゴリズムとデータ構造」を中心としたコーディングテストを何度も何度も課す傾向が強かった。対するスタートアップは、足切りこそオンラインジャッジシステムを使ったコーディングテストが行われたりするが、オンサイト面接ではペアプログラミング形式で実務に近いコーディング能力を見られることが多かったように思う。
このスタートアップはまさに後者で、彼らは候補者が実際に入社した際にアプリを作る能力が即備わっているかどうかを確かめようとしていた。つまり、事前にアプリを入念に調査し、あまつさえ簡易版を実装して準備していた僕は、彼らの面接の課題や質問を少々やりすぎではないかというほど完膚なきまでにねじ伏せることに成功したのだ。

この会社からは人生初の米国企業のオファーレターをもらった。

親愛なる文彦
FooBar, Inc.(以下「当社」)は、以下の条件で採用のオファーをあなたにお送りします。

感動的な瞬間であった。
オファーレターの中に、米国の雇用で有名な「At-will employment(雇用は双方の合意によってのみ継続される。つまり雇用側は一方的にクビにできる)」を実際に見つけたときは、恐ろしさよりも「こ、これ進研ゼミで見たやつだ!」というような無邪気な喜びのほうが先であった。

待遇にも心躍るものがあった。
物価の違いがあるので単純比較はできないが、基本給だけで当時の年収とはケタ違い。ここにSO(Stock Option = 株式を購入する権利。将来会社が大きくなるとリターンも大きくなる)も加わる。吹けば飛ぶようなスタートアップですらこれなのだ。アメリカンドリームを全身で感じた。

結果を聞いた妻はこのとき、ボストン=寒いという点でやや難色を示したものの、米国で働くこと自体には好意的だった。僕は人生初の米国からのオファーレターに正式にサインをし、具体的に話を前に進めることにした。

米国就労ビザへの道のり

何かがおかしかった。
オファーレターにサインした僕の次のステップは米国就労ビザの取得だった。これが全く前に進まないのだ。

この時、僕は(そして恐らくはその会社すら)余りにも米国のビザに対して無知だった。ソフトウェアエンジニアが米国で就労する場合、まず検討されるのがH-1Bと呼ばれる専門職ビザである。詳細はここでは省くが、このビザはタイミング次第では抽選・申込・就労開始まで足掛け1年半以上掛かることがあり得るのだ。早くアメリカで働きたいという僕の逸る心とは裏腹に、何度HRや移民弁護士とメールをやり取りしても僕のビザは取得の見込みすらなかった。

そのまま事態はなんと1年近くも膠着状態に陥ることになる。我々は何度か話し合いを持ち、流石に「日本からリモートで働くことにしよう」という提示を受けるが、当時の僕は「何で東京なんだ。俺は世界に行きたいんだ!」という思いが強すぎ、愚かにもこの申し出を断って判断を保留してしまう。

何という運命の因果だろうか。
これはこの当時の無知な僕には知る由もないことなのだが、僕はこの決断に後年大変な後悔をすることになる。実は米国企業で「ビザは何年かかっても面倒を見るからお前に来て欲しい。その間リモートで働いてくれて構わない」などという寛大な会社は、後にも先にもここだけだったのだ。

僕は失意のどん底に居た。

正門は閉じ、裏窓は開く

転機はまったく意外な所から訪れる。
当時働いていた会社の上長には、米国でソフトウェアエンジニアになることは僕の夢であったこと、現地スタートアップからオファーを貰っており、ビザの段取りがついたら退職する覚悟であることなどは伝えていた。彼は僕の状況に理解を示しつつ、それならばと
「実はUSにラボを立ち上げる話があって適任者を探しているのだが、同僚として君を去らせるのは惜しい。君が会社に残るというのならそのポジションに推薦する用意がある」
と告げたのだ(あくまで推薦であり、もちろん決定は我々の預かり知らないもっと上の方でなされる)

これは控えめに言っても文句のつけようがない申し出だった。
ひとつには、このような勝手を通そうとしている僕のような若造の微才すら惜しんでくれた上長の心意気に感動したし、もうひとつには不確定要素が大きくまだ目処すらついていないスタートアップのビザに比して大企業の転籍ビザを利用できる確実性は実に魅力的だった。僕はこの申し出に乗ることにした。上長の手腕か、僕の強運か、果たしてこの推薦は結実することとなった。僕は米国カリフォルニア州のラボ機能の立ち上げエンジニアに抜擢された。

正面玄関が閉じたと思ったところで、全く意外なところにポッカリと裏口が開いていた。僕は人生の不思議な巡り合わせと縁について考えずにはいられなかった。
短期的には何かを目指して努力することはあったが、長期的には色んな偶然が積み重なって5年前の自分が想像もしなかったような場所に向かおうとしている。様々な人の助けや幸運もあった。それらがようやく海外で働く―当初思い描いていたのとは少し違う形でだが―という結果に結びついた。僕は何だか現実のことではないような地に足のつかないような感覚ながら、喜びを奥歯の方で噛み締めていた。

初めてオファーを貰い、次のステップを保留していた米国のスタートアップには正式にオファー辞退の連絡をした。この会社とは残念ながら運命の歯車が噛み合うことはなかった。しかしこの会社は僕に米国現地企業の面接突破と合格という初めての成功体験を与えてくれた。これがあったからその後の現地就職という結果があるのだ。この時のオファーレターは、いまも記念として大切に残してある。

次回最終回「旅の終わり」に続きます。

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