書評「高校数学の基礎が150分でわかる本」
国際情報オリンピックで3年連続の金メダルを取り、現役東大生でありながら世界的な競技プログラミングサイトAtCoderでは上位0.3%であるRed Coderでもある著名な競技プログラマE869120さんが書かれた「高校数学の基礎が150分でわかる本」を読み終えたので書評を残しておきたいと思います。
どのような人にオススメか
まず、端的に述べてこの本は素晴らしい本です。全体を通して、数学に一度落ちこぼれてしまった人たちへの慈愛と、彼らを何とか上に引っ張り上げようとする創意工夫に満ち溢れています。特にオススメしたい読者は次のとおりです。
いわゆる文系で高校時代に数学をほとんど諦めてしまったが、もう一度数学に入門したい社会人
専門外からIT業界に就職したが、数学的教養がなくコンプレックスを感じている人
何らかの理由で現役時代に勉強をすることができなかったが、今からでも数学を独習したいすべての人
本書は150分で読めることをひとつの売りにしており、実際に中学範囲の大部分を忘れていた編集者ですら 190 分で読めてしまったそうです。僕は夏休みの子守りの合間に途切れ途切れに読むことを余儀なくされましたが、演習問題を含めてトータルでは2時間かかっていないと思います。ちなみに僕のスペックは、
現役ソフトウェアエンジニア
高校時代はいわゆる文系で、地方国立に共通テストの数IAIIBを使って受かった程度の数学力
大学院から理転して修士(情報科学)を取ったので高校数学の基礎はどうにか問題がないレベル
です。裏を返せば、バキバキの理系大学・院を卒業している人で本書の内容を「初めて」理解するという人は流石にほとんど居ないものと思われます(もちろん、そういう人が20年ぶりに高校数学の復習をするといった用途で読むのはまったく問題がありません)
本書で扱われている範囲
おおよそ現在の教育課程における数学IAIIBの基礎を扱っているようです。具体的には、
一次関数
二次関数
指数関数
対数関数
場合の数
確率統計
相関係数
微分
積分
整数
数列
三角比・三角関数
などが扱われています。コンテンツの濃度は部・章によってまちまちですが、これは読者の数学アレルギーをできるだけ刺激しないようにという著者の腐心の結果だと感じます。それでは部毎に率直な感想を述べたいと思います。
第1部:これから数学を学ぶ皆さんへ
この本の特徴が簡潔に記されています。本書では数式の利用を必要最小限にとどめ、その代わりイラストがふんだんに使われていて視覚的にとてもイメージしやすいです。また、各単元ごとに「これが実世界では何に使われているのか」という実用例が必ず紹介されているので、数学嫌いにありがちな「説明はわかったけど結局何の役に立つのか分からない」という状況が起きにくくなっています。そして本部の後半では中学数学の簡単なおさらいがあるので、本書を読むための前提知識はほとんど不要です。
第2部:関数編
まず関数とは何かというところから始まり、一次関数、二次関数が紹介されます。ここでは一次関数のグラフは直線、二次関数のグラフは放物線という程度にとどまり、例えば二次関数の平方完成、最大と最小、x軸との共有点から二次方程式の実数解といった話題は出てきません。つづいて指数関数、対数関数の話題に移ります。ここでも指数関数、対数関数のグラフの形から始まり、ウイルスの爆発的な増殖の様子や対数目盛による感染ピークの視覚化など卑近な例を使ってそれぞれの関数の性質がうまく説明されています。指数の拡張としてマイナスの指数や少数乗の指数が自然な形で説明されていますが、本書の目指すところが超基礎であるため、対数法則などは意図的に除外されているようです。
第3部:場合の数/確率統計編
順列や組み合わせを扱う情報技術者にはなくてはならない分野です。順列・組み合わせというと高校数学では
nPr = n! / (n - r)!
nCr = n! / r!(n -r)!
などの公式を覚えることが多いと思いますが、本書では樹形図やイラストをふんだんに使ってなぜ順列公式や組み合わせ公式が成り立つのかを視覚的に説明しています。次に期待値の計算、標準偏差、相関係数などの話題に続きます。第3部は特に内容の完成度が高く、実用的な例を元に例題を解いているうちにデータの偏りや傾向について分析する方法を身につけられるようになっています。
第4部:微分積分編
高校数学の鬼門・微分積分に突入します。まず微分はなめらかに変化するグラフに非常に近づいて見ると局所的には一次関数ように見えるところから瞬間の変化量・微分係数を求めるところから始まり、いきなり微分公式で多項式を微分します。極限も、
lim h -> 0 f(a + h) - f(a) / h
といった瞬間変化率も出て来ません。これは大胆な構成ですが、本書では微分係数を計算できればよいということにしているようです。次に積分ですが、これはまず一次関数のグラフから図形的に面積を求めることで積分の何たるかを掴み、それから積分公式で二次関数を定積分する作業を通じてこれが微分のまったく反対の操作であることを学べる作りになっています。最後にこの単元で扱った新幹線の移動距離から速度を求める操作と、速度の積み重ねから移動距離を求める操作がコインの表と裏のような存在であることを確認して締めくくられています。
第5部:その他のトピック
ここではいくつかの異なった単元が扱われています。まずは整数の単元からユークリッドの互除法で最大公約数(GCD)を求め、次に整数a x b / GCDで最小公倍数(LCM)を求める方法が紹介されています。ユークリッドの互除法でGCDやLCMを求める問題は競技プログラミング(の解法の一部)や米系テック企業の足切りなどで頻出なのでソフトウェア技術者の皆さんには比較的馴染み深いと思いますが、僕は現役時代にこれを習ったかどうか思い出せません。著者に確認したところ、ユークリッドの互除法は2021以前では「整数の性質」、2022以降では「数学と人間の生活」でいずれも数Aの一部だそうです。次に同じく整数から10進法と2進法の基数変換を学びます。こちらも情報系技術者には避けて通ることの出来ない内容です。その次は数列ですが、こちらは等差数列と等比数列の簡単な説明と等差数列の和の公式が紹介されるにとどまっています。そして必要条件と十分条件のあとで最後の単元である三角比・三角関数に入ります。面白いのが、まずは三角比でsin, cos, tanの定義があった後、いきなりExcelを使って具体的な三角比を計算する方法を学びます。たとえば飛行機の進入角度から目的地への距離を計算するような実用的な例が紹介されています。高校では通常45, 45, 90°の二等辺三角形と30, 60, 90°の直角三角形を使って非常に限定的な状況の三角比の計算を沢山練習し、その後加法定理などに繋がっていきますが、本書では加法定理も半角の公式も倍角の公式も正弦定理も余弦定理も出て来ません。単位円を描いて三角形を第三・第四象限まで拡張して三角関数に繋げたり、その周期性を利用したりという発展的な内容はおそらく読者を混乱させると判断してバッサリと省略されたものと思います。
総評
この書評を見ると、いかにも各章の足りない部分にケチをつけているようですが、それはまったく本意ではなく、むしろまったく逆です。僕はこの本が誰に向けられたもので誰に向けられたものでないかを明らかにするためにこの書評を書きました。僕も本を書いたことがあるのでよく分かりますが、本は何を書くかよりむしろ何を書かないかの選択が極めて重要です。紙面も読者の興味も限られているからです。
本書は数学があまり得意ではない人が独学で数学の「超基礎」を学べることに最大のフォーカスを置いており、その目的において素晴らしいバランス感覚を持っていると感じます。おそらく何度も(しばしば数学が得意ではない)編集者と議論と推敲を重ね、彼らが分かりにくいとフィードバックした部分を大胆に書き換えていったことが本書の随所から見て取れます。それは慈しみにも似ています。なんとしてもひとりの脱落者も出すまいとする気概を感じます。
僕自身も大学学部は文系卒の数学落伍者であり、中学生の内容から数学をやり直して後に理系の大学院の修士課程を修了しました。独学というのは本当に孤独で、分かる人からすると何でもない式変形が分からずに数時間を無駄にしたりします。そんなとき僕のよるべとなったのは、かつて存在した数学ハイパーテキストというウェブサイトでした。以前このサイトがまだ存在した頃それをTwitterで紹介したところバズってしまい、文脈を知らない人が大量に引用ツイートやはてなブックマークなどで「数学的に正確ではない」「よい教材とは思わない」と罵って行きました。それはこのサイトの理念を理解していなかったからです。このサイトは元塾講師の方が様々な理由で学校で数学を学べない人たちのために、当時急速に拡大しつつあったインターネットに無料で学べるコンテンツを公開しようという純然たる善意で作られたウェブサイトです。多少の数学的正確性に目をつぶっても、高校数学がまったく分からない読者が独習できるように分かりやすく書かれています。僕はこのサイトにどれほど救われて、数学への最初の一歩を踏み出す勇気をもらったか計り知れません。そして「高校数学の基礎が150分でわかる本」がかつての僕のような存在が最初の一歩を踏み出すための助けになることを確信しています。この本はそれ一冊で高校数学のすべてを理解したり受験対策に使えるものではありません。そもそもそんな本を1冊で書くことは不可能です。著者もこの本は受験に向けたものではないと明言しています。この本を読んで一歩踏み出し、「あれ、高校数学意外と怖くないな」と自信をつけ、その先は教科書なり問題集なりに取り組めば良いのです。そのように本書の立ち位置を正しく理解すれば、この本は100点です。